2022年10月19日水曜日

感情と精神療法 3

 

 ここからは憶測の話だが、フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。フロイトのポートレートを見ると、どれもしかつめらしい顔をしている。しかし彼ほどの情熱家はいない。フリースなどにはデレデレの手紙を書いている。「私にとってあなたほど偉大な存在など考えられません」的な熱烈な恋文調の手紙を送っていたのだ。彼の惚れっぽさは只者ではない。理論にも人にも。フロイトはツンデレだったのだ。

恐らくフロイトが最も興味を持ったのは、性的欲望や快楽であったことは疑いない。彼は4年ほどの婚約機関の間、マルタさんとの性的交渉を控えたのは言うまでもない。そしてその期間に900通を超える熱烈なラブレターを送っている。ところが結婚するとその情熱は恐らくフロイトが想像していたよりははるかに消えてしまったのである。そしてフロイトは、ある意味では当然すぎる現実に出会ったのだ。それは「対象に対する情熱は、その現実の姿を知ることで消える」ということだ。私がなぜこのことを強調するかと言えば、フロイトが禁欲規則を唱えた際にこのことが一番頭にあったと考えらえるからである。彼はわかりやすく言えば次のようなことを言っている。

「患者の情熱を治療者が受け止めるとしたら、つまりそれにこたえて恋愛関係に入ってしまったら、転移は消えてしまう。すると治療を進めるべき力そのものが消えてしまう。だから治療者は禁欲的でなくてはならない。」

もちろん私は少し誇張して書いている感じもしないでもないが、少なくともフロイトは治療者が患者の情熱にこたえることの倫理的な問題について強調しているという印象を受けないのだ。それよりも「関係を持ったら情熱はもうオシマイでしょ」という割り切り方は、フロイトが婚約から結婚に至る過程で彼が身をもって体験したことであると私に想像させるのである。

フロイトのこの件についての考え方の中で特徴的なのは、患者は最初から治療者に転移感情を持っているかのような書き方である。もちろん治療を求める際には、治療者への理想化はあるかもしれない。でもフロイトはそれをあたかも恋愛感情のような形で患者の中にすでにあると思っているところがある。これも極端な言い方かも知れないが、フロイトは人間の感情を性的な感情に結び付け過ぎの傾向があるようである。