2022年10月14日金曜日

神経哲学の教え 9

 DMNで起きていることは非象徴的な一次過程?

 神経科学において主流な考え方はシェリントンに代表される、外界からの刺激に反応する反射的な器官としての脳である。(Nortoff, 41)しかしこの考えが否定されるのが、この研究の成果だ。安静時能活動の存在は、心が外的な刺激を受けなくても固有に存在しているということだ。しかし一人で勝手に存在しているというわけではない。そこがミソである。それはある種の準備状態readiness を作っている。しかもその準備状態としてはさまざまなものを起動しておかなくてはならない。そこで脳の活動を総動員しておく、というのが一つの仮説である。あるいは脳はDMNで記憶を固定しているという考えも成り立つ。つまりそこでは必要なものをよりしっかり固定し、必要でないものは押し流してしまうという、ちょうどレム睡眠で行っているような作業を既に起こしているのではないか。

例の「ルビンの壺」の絵の実験で、面白いものがあるという。あの絵を見せられた人の誰が、最初に「壺だ」と言い、誰が「顔だ」というかは、それを見せる前にその人の脳を調べればわかるという。脳に人の顔を認識する紡錘状回という所があるが、そこの血流が上がっている人は「顔だ」となるらしい。これはどういうことか。

恐らく脳は揺らいでいてどこがどれだけ興奮しているかは区別がつかない。そしてそこでどのような発想が生まれるかもあらかじめ決められていない。地殻の変動による地震と同じように「冪乗則」に従うと考えるしかない。するとそこで起きてくることは、まさにフロイトの言う一次過程に似てくるのではないか。つまりそれ自身ではあまり意味をなさない、暗号の様なものだ。そのわからなさ、意味の通じなさは、私達が見る夢に表される。しかもしれは「非象徴的」だ。フロイトの考えたようなより深層の意味を持っているというわけでもない。