治療関係における偶発性の要素
たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。
この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。
この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。
ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。
結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発時を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。