解離症状は封じるべきか?
どうやらこれは解離についても言えるらしい。放っておくと癖になるから、見て見ぬふりをする。解離を認めてしまうと歯止めが効かなくなってしまう。これはかなり説得力のあるナラティブで、明らかに嗜癖を形成するような症状や行動ならば、概ねこの考えのとおりである。シンナーを吸って陶酔している若者には、急いで止めさせるにこしたことがない。しかし解離の場合は事情が違う。
交代人格と出会わないという立場の治療者から繰り返し聞くメッセージがある。「私は解離の存在を否定するつもりはありませんし、私の患者さんにも解離を起こす人が何人もいます。ただ私は交代人格をそれとして認めることで、それを促進したくないだけです。」その主張に対する反論は、私が「解離否認症候群」と呼ぶ人たちよりもより一層注意深いものとなる。なぜならトラウマ関連の症状には、確かにある症状の発現が呼び水のように働くこともあるからだ。
ある患者さんは、昔のトラウマについて治療者に聞かれてから、フラッシュバックが頻発するようになった。一週間でそれを収めてまた来院するが、そこでも同じことが繰り返され、結局は治療を中断することになった。これは実際に起きる話である。この場合はそのフラッシュバックが治療状況において誘発された場合にはそれを抑制するような対応、すなわちトラウマ記憶に「あえて触れない」ということも必要になる。これに関して私はよく原子力発電の比喩を用いる。治療者は連続的な核分裂が起きかねない際に制御棒の出し入れを適切に行う必要がある。トラウマ記憶を全く扱わないことには核分裂反応が起きずに電力という名の治療の進展が起きない。しかし一気にトラウマ記憶が起こりすぎるような介入も問題である。そのための制御を臨床的に行うのが治療者の使命なのだ。
解離の臨床でより頻繁に問題となるのは、子供の人格である。治療関係が安定し、やがて子供の人格さんが面接室に現れるようになる。治療者はそれを歓迎して一緒に遊び、それからはその子供の人格が治療場面にたびたび出現するようになる。そのうち面接時間が子供の人格とのプレイセラピーで終わってしまうようになる。そして当初治療を求めてやってきた主人格から「私の治療に全然なっていません!」と不満を言われることがある。それでも「交代人格は無視しない」という原則を守り続けると、誰のための治療かわからなくなる、という主張はそれなりに正しいことになる。
これらの例からわかることは、交代人格はその出現を許容し、あるいは促すことには治療的な意味があると同時に現実生活における適応度を損なう場合もある、という現実である。結局「『どの交代人格とどのような時に、いかにして出会うか』という問題についての臨床的な判断を常に適切に行わなくてはならない」、というより一般化され、相対的な原則がその背後にあることが分かる。そしてこの原則の意味をケースごとに考えていくことから解離の臨床が始めるのである。ただ一つ言えるのは、「交代人格は無視する」という理屈はそれ自体が極めて奥深い解離の臨床をあまりに単純化したものであるということだ。