2022年10月17日月曜日

神経哲学の教え 10

 DMNと創造性

 1986年のドキュメンタリーで、手塚治虫は新たな発想の生まれる過程について語っていた。それは一度頭を真っ白にして、何も考えないようにして、そこから発想を得るということだ。そのために時々テレビをつけっぱなしにすることもある。しかしそれはその内容に集中するという意味ではない。彼は絵コンテにペンを入れるのに集中している。そこはタスクポジティブなネットワークに依存する。しかし同時に音楽を聴いたりテレビをつけていたりするのだ。これは恐らくデフォルトモードを活動させるためにという気がする。なぜなら彼はそこから発想を得ているからである。手塚治虫を追いかけたドキュメンタリーでは3日間で3時間しか寝ずに漫画を描き続ける。その彼にとっては両方のモードを別々に活性化させるだけの時間的な余裕がないのではないか。両方の力を借りなければならず、その解決方法が、彼にとっての「ながら」だったわけである。」ニコラ・テスラの場合もそうだが、彼はある種の発想を得るためにあえて心を空にしようとしていた。つまりDMNを作ろうとしていた。これは一律に言えることだ。皆は何かを考えるとき目を瞑ったり、宙を見たりする。これは明らかにデフォルトモードに入っているのだ。(それと解離において別人格に変わる時も全く同じ仕草をする。)そこで彼らが言っていたのは、幾つかの結びつきである。それらは極端なものかもしれないが、ある種の試験的な脳波の照合を行っている可能性があるだろう。

手塚は「アドルフに告ぐ」の発想としてヒトラーとゾルゲという、両方とも関心のある、しかし全く異なるものを結び付けたという。おそらくDMNはせいぜいこの結びつける、という程度のことしかできないし、かなり行き当たりばったりだ。言い換えればDMNにおける一次過程はかなり偶発的な、非象徴的なレベルのものなのだ。