更には従来転換性障害と同様に用いられていた「心因性psychogenic 」という表現も、DSM-5やICD11では用いられていないことも注目すべきであろう。「心因性」とうたうからには、その症状がある程度理解可能な精神的な原因があることを想定していることになるが、その表現さえ用いないことで、私たちはこれらの「機能性神経症状」について何らかの原因を求めることを保留したものと考えられるだろう。
しかしそれを前提とした上で、この機能性神経症状において何が起きているのかをもう一歩進んで考えるとしたら何が言えるだろうか? ここで話を単純化するために、機能性の運動障害の中でも失声症について考えてみる。人の脳は「声を出せ」という命令を、声帯や横隔膜その他の随意筋に向かう運動神経に対して伝えることによって発声が生じる。そしてその命令を出す部位は運動野のすぐ隣に位置する運動前野である。(ただし更に詳しくは、両者の間に、運動をまとめる「高次運動野」が介在することになる。)ところがここには、脳のほかの部位からも指令が伝わる可能性がある。例えば何かに驚いて思わず叫びそうになった時に、周囲の人への影響を考えてそれを抑えるという場合を考えよう。その場合は一度声帯その他の筋肉に「動かせ」と命令を送りかけた運動前野には「やはり声を出すな」という抑制がかかることになる。そして結果的に声が出なくても本人には特に違和感はないはずだ。自分の意思で声を出すのを抑えた、という実感を持つからだ。しかし心の別の部分から「声を出すな」という運動抑制の命令が運動前野に送られ、そしてその当人が、その命令が出たことを意識していない場合はどうだろう?
機能性の神経症状症では、この不思議な事態が生じていると考えざるを得ない。ただし上述の例での運動抑制が運動前野よりさらに脳の「上位」の部位、たとえば帯状回運動野などの運動連合野において生じているのか、あるいは「下位」の高次運動野に生じているのかは正確には不明であるが。そして無論この「心の別の部分」が何をさすのかは、基本的には不明である。すると問題を突き詰めれば機能性の神経症状とは、当人の意識に上らない形での、原因不明の運動機能や感覚機能の抑制(ないしは逆に賦活の場合もありうる)が生じる事態ということができる。
ちなみに「心の別の部分」について、精神分析的には前意識、ないし無意識などと説明されるであろう。転換症状という言葉を作った100年前のフロイトならこう考えた。「心の中で抑圧している部分、すなわち無意識がそうさせているのだ。」そしてその意図が無意識になっているということは、その理由を当人が意識化することを拒絶しているからだ。たとえば「足が動かないという理由で仕事を休みたい」という無意識的な願望かあれば、そのような症状が成立すると考え、この抑圧によるエネルギーが症状へと転換されたという意味から「転換症状」という概念が生まれたのだ。(後に述べるように解離の理論は、脳の解離された、別の場所からの命令が生じる、と考えることになる。)