3.自律神経系を介する症状―ポリベイガル・セオリー
トラウマは自律神経系を介して運動、感覚器官以外の様々な身体症状にかかわっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、あるいは胃、腸管、肝臓、腎臓、膀胱、肺、瞳孔、心臓などの臓器、そして一部の感覚器官を支配している。自律神経系は交感神経系と副交感(迷走)神経系からなるが、通常は両者の間で微妙なバランスが保たれており、人はその支配する期間を意図的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどにより自律神経のバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れることになる。
一例を挙げよう。職場のストレスを抱える人が、出勤の途中でめまいが起き、心臓がドキドキしたかと思うと汗が出てきて嘔気がする、などの症状を呈する様になる。症状の表れている器官や部位は特定できているため、彼は内科や眼科、耳鼻科などを受診するであろう。しかしそれらの個別の器官に異常は見られず、医師からは対症療法的な薬物が処方されたうえで経過観察ということになるだろう。しかしそれでも症状が改善しない場合は、彼は精神科や心療内科の受診を勧められることになる。
もちろんこれらの自律神経症状がどこまで職場のストレスやトラウマと因果関係を有するかを明らかにすることは難しい場合もあろう。またこれらが抑うつ症状その他の種々の精神疾患や心身症に伴うことも非常に多い。しかしこれらの症状は1.で述べたフラッシュバックに伴う形でも頻繁に見られる。
この様に自律神経症状はトラウマにとって特異的とは言えないが、両者の関連性についての近年の研究に大きく貢献したのが、メリーランド大学のポージスStephen Porges が1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論(重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)である(Porges, 2011)。ポージスは特に従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化そのほかを司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経(DV)の機能である。そして第二の段階は交感神経系である。さらに第三の段階は、有髄迷走神経myelinated vagus で、腹側迷走神経(CV)とよばれ、これは哺乳類になって発達したものであるとされる。VCは環境との関係を保ったり絶ったりするうえで、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類に特有のVCは、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。このように自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部下垂体副腎系、オキシトシンとバソプレッシンの分泌、免疫系などと共に進化してきたのだ。
これらの自律神経の三段階のうち、特に解離症状と関連が深いのが第一の段階である。つまり強烈なトラウマ状況におかれると、緊急事態の際のVCによる不動状態 immobilization
が生じる。これは本来哺乳類に備わった防衛であり、それにより酸素の消費を温存すべく、生体が体の機能をシャットダウンしてしまう機制であり、また人間においては解離性の昏迷状態にも相当する。
5.その他
最後に「その他」の項目を設ける理由は、最近の画像診断の発展により、私たちがこれまで知ることのなかった形での、トラウマの「脳への刻印」が注目されるようになってきているからである。端的に言えば、過去のトラウマの体験により、脳の特定の部位が減少したり、逆に増大したりするという現象が数多く報告されるようになっているのだ。
海馬の容積の減少はうつ病や統合失調症やアルコール中毒にも多くみられることが知られているが、とりわけPTSDにおける所見として注目を浴び、トラウマやストレスによるコルチゾールの影響なども考えられた(Bonne,
O, Brandes,
D et al (2001)。ただし最近の双子研究は、トラウマを受けずに発症しなかった双子の片割れにおいても海馬の容積が小さいことが見いだされ(Kremen, WS, Koenen, KC. et al,2012)、海馬の容積の小ささはPTSD結果と同時に遺伝的な体質とも相関があると考えられている(Kremen, WS, Koenen, KC. et al,2012)。
それに加えて最近では扁桃核の容積の減少も報告されている (Rajendra A.
Morey, R. Gold,
AL.et al. 2012 )。扁桃核の容積に関しては、幼少時のトラウマとの関係が種々に指摘されてきた。最近でも人生の上での短期間のストレスがその容積の減少と関係しているという研究が見られる(Sublette ME, Galfalvy HC, et
al. (2016)
さらにトラウマとの関連で注目されているのは、虐待を受けた子供に見られる前頭前野や側頭葉の容積が低下しているという所見である(Gold, AL, Sheridan, MA., et al, 2016)。最近のメタアナリシスでは、腹側前頭前野、上側等回、扁桃体、等の体積の減少が指摘されている。さらには虐待を受けた子供で、一次視覚野の容積の減少が見られると報告され、ある研究ではこれはワーキングメモリーに関わるためであるとする(Tomoda A, Navalta CP
et al 2009)。一般に記憶を短期間保持する場合に、視覚的な情報に依存する場合が多く、一次視覚野の体積の現象はこの機能を低下させるためと考えられている。
さらに興味深い事実としては、虐待がどの年齢に起きたかにより、脳のどの部分が委縮するかという「感受期」が知られているという。それによれば記憶に関わる海馬は3から5歳、脳梁(左右半球をつないでいる部分)は9~10歳、前頭前野は14~15歳であるという。ここで考えられるのは、幼少時のトラウマは海馬の機能不全を介して解離の病理を生む可能性があるということだ。また興味深いのは、虐待により脳は萎縮するばかりでなく増大も見られるという。特に暴言を聞き続けた子供は、聴覚野の一部が増大し、それはそこで正常に行われなくてはならなかった神経線維の刈り込み(剪定 pruning)が損なわれているためであると説明されている。
ところで先述の通り、神経細胞は一度出来たら再生することはないと考えてきた。胎生期に最大の数に分裂した神経細胞は、基本的にはそれから消失されていく一方であると考えている。1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で神経が新生される可能性も示されたが、その詳細はわかっていない。するとトラウマによりその容積が減少するのは、トラウマが神経細胞死を招いたとしたら説明されようが、また治療により回復するという現象は、この神経細胞の数からは説明できないことになる。おそらくこの問題についてはほとんど理解が進んではいないが、最近のグリア細胞に関する知見はひとつの可能性を示しているであろう。グリア細胞とは、神経細胞の50倍もの数が存在し、神経細胞を取り巻き、栄養を送り、支えている、別名神経膠細胞と呼ばれている細胞だ。このグリアが実は脳において以外にも大きな働きをしているということが研究により次々と明らかになってきている(Fields, 2009)。
ところで先述の通り、神経細胞は一度出来たら再生することはないと考えてきた。胎生期に最大の数に分裂した神経細胞は、基本的にはそれから消失されていく一方であると考えている。1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で神経が新生される可能性も示されたが、その詳細はわかっていない。するとトラウマによりその容積が減少するのは、トラウマが神経細胞死を招いたとしたら説明されようが、また治療により回復するという現象は、この神経細胞の数からは説明できないことになる。おそらくこの問題についてはほとんど理解が進んではいないが、最近のグリア細胞に関する知見はひとつの可能性を示しているであろう。グリア細胞とは、神経細胞の50倍もの数が存在し、神経細胞を取り巻き、栄養を送り、支えている、別名神経膠細胞と呼ばれている細胞だ。このグリアが実は脳において以外にも大きな働きをしているということが研究により次々と明らかになってきている(Fields, 2009)。
おそらくこのグリア細胞の数のかなり急速な増減が、脳実質の縮小ないし増大という「脳の刻印」に関係していることが推察されるが、今のところこれは私の推察の域を出ない。
6.終わりに
本稿ではトラウマの身体への刻印という表現を用いてきたが、より正確には、やはりトラウマは脳に刻印されるのである。そしてそれが身体症状につながるのだ。しかしその機序は極めて複雑であり、その大まかなアウトラインが本稿で示した1~4の機序によるものである。そしてそれらのどれもが、解離の病理との関連性を有しているのである。逆に言えば解離の病理の理解はトラウマの身体(脳)への刻印をより包括的に理解することにつながるのだ。
(参考文献) 略