2018年9月27日木曜日

パーソナリティ障害はまだ… 2


一応私が論じたいのは Kevin Dutton The Wisdom of Psychopath (2012) に書かれているような内容だ。前から気になっていたがちゃんと読んでいなかった本を下敷きにすることにする。この本がすばらしいのは、パーソナリティ障害について根本的に見直し、それをサイコパス-アスペルガー軸で論じなおしているからだ。だからこの機会にしばらく読んでいこう。と言ってもざっと、である。
序論のところでニューレグリン1という遺伝子の話が出てくる。この遺伝子が一塩基だけ変異したものは、従来は精神病や記憶障害や批判への敏感さと結びついていたのだが、最近創造性とも深い結びつきが発見されたということである。この厄介な遺伝子の変異は、実は適応的にもはたらいていたということだ。要するにノーベル賞をもらうような人たちの中に、これらの要素を持った人がより多いという可能性があるという風に考えてもいい。要するに創造的な人は、ちょっと変わっていて、通常の秀才とはおそらくかなり違っている可能性があるということだ。
似たような研究がいくつかあるのだが、これらが重要なのは、なぜか人間が持ち続けている、通常なら問題となる傾向が、なぜか適応を助長しているということがよくあるという事情を伝えてるからだ。精神病の人はそれだけ子孫を増やす確率を(どちらかと言えば)下げているだろう。でもどうして一定の割合の精神病の人が人類の中にいるのか。それはおそらく精神病を起こしやすい遺伝子が、他の適応的な部分に直接、間接にかかわっているかもしれないということなのだ。このように人間の特徴を決める形質は実は他のいくつかの性質にも貢献していて、互いが複雑に入り混じっている。決して有名な性格のビッグファイブ、OCEANSの、「体験に対するオープンさ」「良心的な性質」「外向性」「人当たりのよさ」「神経症的性質」のそれぞれをひとつずつの遺伝子が担当する、というような簡単な話ではないのだ。
サイコパス性、というこの本の主題について再び考えよう。サイコパスがいくつかの遺伝子により構成されていると仮定しよう。それらの遺伝子を多く持つ人は、それだけ生存の機会が増え、したがって子孫にその遺伝子を残しやすいのか。おそらくそうだろう。たとえば、である。ある国にスランプという人がいて、大統領だとしよう。スランプ大統領。余計な想像はしないで欲しい。そして彼はおそらくかなりのサイコパス性を備えているとしよう。彼が子孫を増やす可能性は・・・。おそらく高いのではないか。たくさんの人を押しのけ、自己主張を通し、そのためにはおそらく怪しげなことにも手を染めるかもしれない。いや、あくまでもスランプ大統領である。サイコパスの人の持つ、自己中心性、表面上のスムーズさ、計算高さ、女性を甘言に乗せることのうまさ・・・・。
おそらくことごとく社会での成功を勝ち得る方向につながるだろう。ここまでのロジックは一見スムーズに見える。ただ第一に挙げられる疑問は次のことだ。もしサイコパスが社会適応性を獲得するのであれば、そしてそれだけ遺伝子を残す可能性が高いのであれば、どうして世の中はサイコパスだらけにならないのだろうか?慧眼な読者ならこの問題が実は容易に答えが出ないことがわかるだろう。ただし答えの可能性のあるものだったら、いくつか思い浮かぶであろう。たとえば Dutton 先生は、サイコパスの人と話していて、なんとなく不気味で、寒気のする人が多い、と述べている。一見スムーズで人当たりのいいサイコパスの人をみると鳥肌が立つ人が多いのはなぜか? それはおそらくそれを働かせることの出来ない類の人は淘汰されてしまったのかもしれないからだ。そして今生き残っている人たちはサイコパスにだまされることなく繁栄できた人たちだと考えることができる。それはそうだろう。サイコパスだらけになってしまったら、お互いに殺し合いをするわけにはいかない。サイコパスではないものの、サイコパスに対する敏感さを備えた人たちもまた生き残ってしかるべきだ。
もうひとつは私の考えたアイデアだ。サイコパスの人とて、実際に愛をはぐくむ相手を見つけなくては繁殖できない。おそらくは社会性があり、ある程度人をひきつける魅力があり、自分の子孫を大事に育てるだけのやさしさを備えたサイコパス、つまりプチサイコパスでなければ生き残れない可能性がある。
このロジックはこの本のひとつの方向性ではある。まだ25ページくらいしか読んではいないが、出てくるテーマは賢いサイコパスとそうでないサイコパスの違い、ということである。前者は自分にとっての報酬を先延ばしに出来るだけの力を持ち、また人を巧妙にだますだけの巧緻を有し、また罰則や報復を恐れないだけの勇気/鈍感さを備えている。そういう人たちは社会の成功者と目される人たちに実はたくさん見られるということだ。