2018年9月21日金曜日

ある対談 4


B先生: 先程養育の話をしましたけど、まなざされることによって存在する私、というのがいると思うのです。そのときに、相手との近さだとかと遠さというのがあるんだと思うです。すなわち、たとえば、ある治療者はものすごく再養育的なっていうか、お姉さんのような働きかけの中で、人格同士がすごくエンパワーメントされて協力し始める、というふうなものがあるのだと思います。そして、先ほどSM先生の治療の話を初めて肉声で聞いたのですが、わあ、この先生、私よりもヒーラーみたいだと思ったんです(笑い)。なんというか、そこに何かがあって、立ち上ってくるもの、入ってくるもの、それこそ場があり、というふうなその中で先生がどーんと構えておられて、何かその人の中で動いていくものがあるような、エネルギーの流れがある、という印象を受けました。まなざされることによって存在する私はいろいろなポジションを取るんです。すごく近くになり、ダイレクティブになるときもあるんですが、そういう時に心がけるのは、患者さんが自分で自分をまなざせるようになるのを助けるということです。それが愛だと思うんです。愛、愛情というのは、誰かのことを好きになるという愛ではなくて、私たちが生かされていること自体、生まれて、ここにこうやって生まれていること自体が愛であり、いろいろな体験することも含めて、この世界で生きているということだけでなんだという目で見ることができるようになったときに、自分を愛おしい目で見ることが出来るようになり、そうすることで結局、発達を促しているのだと思います。これは私にとってはすべて生物学的なプロセスだと思います。トラウマ記憶は精神生理学的な爆弾みたいなものだし、それをいかに、外すかということばっかりやってきたわけで、それもトラウマとか愛着とかの、問題についても同じような原理を用いてずっとやってきた立場からすると、生物学的なメタ認知的な回路を作るということを私は心がけているのだと思います。その場における近さ、遠さ、その中で見るということ、それが治療者の個性によってさまざまな形でありうるという風に感じました。
質問者:先ほどB先生が、融合したらこれが出来なくなってしまった、という症例をお話しされていたんですけど、逆にかつて先生が統合を志向していたころに、融合したことによって上手く良くなったっていう例があれば教えていただきたいのですが。それと統合をどう考えるかということですが、安先生がお訳しになったパトナムの本を読むと、統合っていうのは人格構造の統合的、総合的統一化のことを指していて、融合fusionとは個々の人格同士の融合ってことだと書いてあります。そのあたりは先生方はどのようにとらえていらっしゃるのかということをお聞きしたく思いました。
 B先生: ご質問なさった方の気持ちは私もすごくよくわかります。人格たちは「統合しなきゃ」と言われたときにそれを恐れるということがあるのですが、彼らは融合を恐れているのでしょう。ですから統合ということの意味をもう1回ここで明確にしなくてはならないと思います。最初は統合を志向していたということについては、私はどちらかというと融合っていう方向性で考えていたので、そこのところで齟齬が生じていたかもしれません。統合が、連携とか協力し合うということであるとしたら、それは大変結構なことだと私は考えています。また統合することの良さについては、トラブルが起きなくなることですよね。いろいろなEPが存在する第三次解離からは、もう全く違うものだと考えた方がいいと思うんです。第二次解離までは、やはりANPがちゃんと機能しているわけです。ところがもうANPが耐えられなくなってしまって、第三次解離になってしまうのです。それはもう統合が出来なくなったっていう姿なのかもしれません。つまり第二次構造解離までは、なんとか統合してるのかもしれないのです。そういう広い意味での統合を考えてはどうか。第三次解離を無理やり統合させようとすると、ものすごく危険だと私は思っています。第二次解離までではちゃんと人格状態達がよくわかって、そこにメリットがちゃんとあって、それでその同意のもとに自然に融けるっていう融合が起きてくっていうことは、私はとてもいいことだと思います。