2023年10月14日土曜日

連載エッセイ 9 推敲 1

  今回のテーマは快感の脳科学である。この分野もまた私がとても大きな関心を寄せているテーマである。この連載エッセイではまだ快や不快について真正面から扱ってはいなかった。しかしこの快不快の問題は、脳と心のあり方を知るうえで極めて重大なテーマなのだ。恐らくこのエッセイの2~5回でお話した内容を補完するような内容である。というのもAIやそこに備わる知性について論じた際、5回目の「意識とクオリア」の問題を除いては。感情の話は一切除外していたからである。しかしこのことは快や不快や感情などは恐らくAIが持ちえないもの、つまり心にプロパーなものであるという事を意味しているのである。  このエッセイを開始した時は、私も含めて世の中は chat GPT で騒然としていた(まあ、今でもそうだが。)。私としても人の心とAIとの違いを知ることがとても重要に思えたし、その気持ちは今でも変わらない。しかしこれまでの考察で私が至った結論は、AIは知性ではあっても意識ではないこと、そして意識は人間の脳の働きから生まれる幻想であるという事であった。すると読者はこう問うであろう。「ではAIが感情を持つためにはどうしたらいいのでしょうか?」  それに対して私が答えられることは、「おそらくそれについては手掛かりすらないのが現状です。私達が半世紀かけて作り上げたAIは知性を生むことが明らかになったものの、主観やクオリア、感情を持つためにAIが備えるべき仕組みについてはまだ手が付けられてすらいないのだ。」  以上を前提としたうえで、快、不快の問題に取り掛かりたい。

快楽は脳の一点から生まれる?

 私が「快や不快は脳が生み出すものです」と言っても、誰も反論できないであろう。コカの葉から抽出し精製した白い粉状の物質(コカイン)を微量だけ吸入すると、途轍もない快感が得られる。それは生身の人間がいくら修行を積んでも決して得られるものではない。しかもその快感は、人生で味わう精神的な喜びと質的には何ら変わらないのだ。

 精神分析の祖であるフロイトもこのコカインの効果にいち早く気が付いた一人だった。当時は軍医が兵士の疲労回復に使うくらいであったこの白い物質の麻酔効果や著しい快感を生む性質を知ったフロイトは、これこそが精神の病に効く万能薬だと考えたのである。その頃脳の解剖学はほとんど進んでいなかったが、それでもコカインが脳のどこかに作用して快感を生むという事だけは明らかだった。

 つい最近まで私たちは快と不快に関するある種の「セントラルドグマ」を有していた。そしてこれが快と不快の議論をとてもシンプルかつクリア―にしていたのだ。まずそれを以下に示そう。

  まず1950年代のオールズとミルナーによる快中枢(報酬系)の発見があった。いうならば脳の中に快に関する「押しボタン」が見つかったのである。中脳の側坐核と言われる部分だ。ネズミの実験をしていて、たまたまその部分に誤って電極が刺さった時、ネズミはその電気刺激を得ようと狂ったようにレバーを押し続けたのである。それまで科学者たちは、脳の中に、そこを刺激すると快が得られるような部位があるなどそもそも想定していなかったのだ。

 そもそも脳はどこがどの様な役割を果たしているかが分かりにくいという問題がある。例えば攻撃性を例に挙げてみよう。脳の一部に攻撃性に関係する部位があり、そこが電気刺激されると人が攻撃的になり、そこを抑制されると攻撃性が抑えられるという事は起きるかもしれない。(sham rage を引き起こす視床下部の一部などはそれに該当するだろう。)しかし実際に攻撃性に関与する脳の部分は沢山ある。他に攻撃性を生む場所は沢山あるわけだ。

 ところが報酬系の発見は、脳の中でそこだけの刺激が快感を生むという意味で特別だった。そしてそこでは刺激を受けることによりドーパミンという物質が分泌されるという事もわかった。そして誓って言うが、いかなる進歩したAIもこのような報酬系を有さない。高等な生物(おそらく大脳辺縁系を有する哺乳類以上なら確実に)の脳にしか備わっていないのである。

 この発見から提唱されたのは、いわゆるドーパミンの「最終共通経路 final common pathway 」(Stahl)説である。簡単に行ってしまえば、あらゆる快楽は、最終的には、報酬系の刺激に相当する中脳のドーパミン経路の興奮に繋がるという理論だ。元オリンピックの水泳の選手が、平泳ぎで金メダルを取った時はなった「チョー気持ちい!」と、暑い日に仕事から帰って冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出して一口飲んた「うまい!」は共通した脳の働きによる、というものである。過去40年ほどはこれで色々説明できることになっていた。比較的最近までは、である。

 最終共通経路という理解は私たちに人間性に対するある種の失望を与えるかも知れない。何しろすべての快感は脳の中では同じものなのだというのだ。私達はふつう心地よさについて、高尚なもの、精神的なものと卑俗的なもの、原始的なものを区別する傾向がある。高僧が何年も山にこもり瞑想を続け、ついに自分と宇宙が一体であることを悟り、安らかな幸福感を味わったとする。それとコカインを鼻から吸って得られる心地よさを一緒にすることなどできようか。高僧の得た幸福感は精神的なものであり、人間が苦難に耐えた末に最終的に求める満足感に近いものと言えるだろう。それに比べて賭け事をしたり薬物を用いたりして得られる快感は刹那的であり、動物的であり、非道徳的なものに思えはしないか。

ところが最終共通経路説は、少なくとも脳で起きていることは同じであることと唱えることになる。自然な環境で得られる快感を得た状態を「ナチュラルハイ」と呼ぶが、それは健康的なものであり、薬物によるそれはまやかし、病的なものという先入観が私達にはある。しかしいずれも快感中枢が刺激された状態で脳がそう感じさせているだけなのである。しかし前者をより健全だと思うのは、後者のような快感には、本来味わってはいけない快感であるという後ろめたさが伴うからであろうか。でも主観的には両者は一緒なのである。

 あるコカイン中毒の患者が久しぶりにコカインに手を出してしまい、こう呟いたという。

「ああ、私本来の感覚を取り戻すことが出来た。私は過ちを犯したのではない。神様が『よく頑張ったね』と一瞬のご褒美をくれたのだ。」