2023年10月19日木曜日

連載エッセイ 9 推敲 5

 快に関する共通経路説に対する反論

  ところがこの共通経路説はこの後反論に遭うことになる。それまでの定説が新たな事実と共にあっさりと、あるいはジワジワとひっくり返ってしまうことになったのだ。それが自然科学の醍醐味である。

 それはある実験がきっかけとなった。ケンブリッジ大学のウォルフラム・シュルツ Wolfram Schultz のグループは、サルの脳の報酬系に電極をさして、その部分の興奮の状態をもう少し詳しく調べようとした。そしてサルにチューブを通して甘いシロップという報酬を与えてみる(リンデン,p.153)とサルの報酬系は発火(細胞の興奮)を示した。ここまでは予想通りである。そして彼はサルに電気信号を見せることと組み合わせた。まず緑の信号をサルに見せ、その二秒後にシロップを与えてみるという事を繰り返した。すると最初は報酬系はシロップが与えられた瞬間に興奮していたが、そのうち緑の光を見た時に発火するようになった。つまり緑信号を見た後に報酬が得られることを学習したサルは、その時点ですでに喜びを先取りするようになった。そしてここが肝心なのだが、二秒後に実際のシロップが与えられた瞬間には、報酬系の発火はもはや見られなかったのである。


デイヴィッド・J・リンデン著、岩坂彰訳 快感回路 -なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか 河出書房新社 2012年 

 ちなみにもう一つ重要な所見があり、それは緑信号を見せた後にサルにシロップをあげなかった場合だ。その場合はドーパミンの興奮がマイナスになるのだ。(この意味は後に説明する。)

  この実験結果に基づき、シュルツはドーパミン系に関する新しい理論を打ち立てた。ドーパミンは実は快楽物質ではなかった。予測した報酬が実際にどの程度得られたか、という予測誤差 reward prediction error に反応しているに過ぎないのだ。だからサルは緑の光が点灯した時点で満足するが、その予想にたがわずシロップが得られたときは、予測通りであった(予測誤差がゼロであった)ためにドーパミンの興奮は起きなかったのである。

 この実験結果は多くの学者を悩ませることになった。実際にサルが快感を味わったのは、シロップを口にした瞬間のはずだ。でもその時にドーパミンの分泌に関係しないのであれば、ドーパミンの「最終共通経路説」は正しくないことになるのだろうか?予測通りシロップを味わったサルは嬉しくなかったのであろうか? これらの問題はさておき、シュルツの予測誤差説は学界内に浸透していった。

  さらにもう一つ、共通経路説に対する反証となる実験が行われた。そもそも快感はドーパミン経路の興奮により得られるとしたら、脳にドーパミンが枯渇している場合には快感は得られないはずである。しかしドーパミンを枯渇させたラットでも、報酬を得た際の「おいしい」という感覚は問題なく体験できるということが分かったというのである(page 2, Berridge, 2017)。もちろんラットは「おいしい」とは言わないが、顔の表情が弛緩し、舌や口がリズミカルな動きを示すことでそれはわかるのだという。つまり脳の中に報酬系とは別の部位Xがあり、そこでドーパミンの代わりに何らかの物質が働いて私たちは心地よさを味わうのだと考えられるようになった。

 こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は全面的に否定されたことになったのだ。ちなみにこれらの発見に大きく貢献したのがケント・ベルッジの「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

 このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明する理論として現在注目されている。大前提として私たちは快を求め、不快を回避する、という事はいいだろう。これは生命体全体に当てはまる原則のようなものである。通常は生命体の維持に役立つ物やことがらについては心地よく感じ、害になるものはその逆であるから、この原則に従うことはその個体の生存にとって合目的的である。

 ここからは人間の例に引き付けて考えよう。サルやネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとってのチョコレートを例にあげよう。私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪るわけにはいかない。それにはいくつかの理由がある。はるか昔の文明開化の頃なら、チョコレートは舶来の貴重品で、簡単に手に入れることなどできなかっただろう。今では安価になりコンビニでどこでも手に入るようになった。でも私たちの多くは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」とか「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって自らにストップをかける。このように好きなものには飽きが来るのが普通だ。快の源は一定の範囲でしか私たちを惹きつけないのである。

 あるいはジョギングなどの運動でもいい。適度のジョギングを快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)

 ところが私達は何事かに「ハマる」とか中毒になるという状態を時々経験する。お腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を止められなかったり(過食症)、体は悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。それはなぜなのだろうか?

 この問題を追及したベルッジらは、私たちの体験する心地よさ、快には二種類あると理解することが出来ると考えた。報酬はいわば二重帳簿なのだ。一つはそれに携わっている時の心地よさだ。これは「好き like 」という感覚(これを以下にLと表現しよう)。チョコレートを美味しいと感じ、ジョギングを気持ちいと感じている感覚だ。そしてもう一つはそれを強く求めたり、止められなかったりする感覚。これを彼らは「求める want」ことと言い表した。こちらは以下に「W」としよう。

通常ならLとWは一致している。つまりチョコレートやジョギングは心地いい分だけそれを続けたくなる。それに飽きて楽しくなくなってきたらそれ以上続けたくなくなる。つまりL=Dが成り立っている。ところが過食症やランナーズハイではこの二つにずれが生じる。つまり楽しさ、心地よさが減って来てもWは引き続き高いままであるという状態である(W>L)。通常ならW=Lの成立により私たちの生命を支えてくれるドーパミンシステムがどうしてこのようなことになったのか。そしてそこにドーパミンシステムによる報酬系の誤作動の問題について論じなくてはならない。

 さてここでもう少しこのWなる値について説明したい。というのもおそらくこのLとWの区別は多くの人にとってなじみがないであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はなかったのだ。しかしベルッジに指摘されてなるほど、という事になったのである。

一言でいえば、こうだ。ある事柄を体験する際にその時の快感をLとする。するとWはそのLを実際に体験した時の快感を想像した量である。

 例えばあなたがある銘柄のチョコレートが好きだとする(といっても普通程度に好きだということにする。)。週に一度は店で購入して帰宅後に美味しくいただくことが習慣になっているとしよう。あなたは週に一度のその機会を楽しみにし、実際にそのチョコレートをいつも通り美味しいと感じる。そこでその時の快楽の体験をLとする。

 ここで帰宅の最中に少し時間を巻き戻そう。あなたはチョコレートを鞄に入れてしばらくは、それを帰宅してから食べていることを想像して生唾をゴックンする。その時はおそらくほぼLの量をそのまま想像したであろう。そこでそれをWとしよう。おなじLでどうしていけないかと言われそうだが、どうやらLとWは脳の別々の部分で処理されているようだし、この両者の値がこれからどんどん食い違っていくという事態を考えているため、両者を分けたほうがいいのだ。そこでこのWの量をどのように計測することが出来るか?それはLを想像した時に、報酬系のドーパミンニューロンの興奮の量として計測されるはずだ。思い出していただきたい。サルが緑の信号を見て、「やった、これからシロップがもらえる」と喜んだ時の値に相当するのである。

 さてあなたが特にその銘柄のチョコレートに対する嗜癖が生じていないのであれば、チョコレートを購入してこれから食べようとするごとに、購入した時の先取り値Wと実際のおいしさLは一致していることになる。だから食べた時に「いつも通り美味しい」と感じるのだ。そしてこの報酬系のシステムは私たちの生命の維持に役立っているはずだ。美味しいもの(そしておそらく体にいいもの)を欲しいと感じ、それを実行に移す、という事が繰り返されている限り、このシステムは私たちを健康に保ってくれることになる。ところがここからが問題なのだ。それはこのLとWがどんどんかけ離れていくという病的な事態が生じることが知られているのだ。

 例えばあなたはそのチョコレートを時々食べるだけでよかったのであるが、ある時からいつの間にか毎日でもそれを食べたくなったらどうだろう?それを一日でも欠かすと、「あのチョコを食べたい!」という欲求Wが頭に浮かんでくる。 W=Lだったはずなのに、今やWは3Wとか5Wとかに高まってしまう。

 さらには毎日のように食べているうちに、そのチョコレートの美味しさは半減したり(0.5L)、実際には不味く感じたり(マイナスL)するかもしれない。しかしそれにもかかわらず、3Wとか5Wは維持されていく。すると「あの不味いチョコレートを猛烈に食べたい!」という極めて不都合な事態が生じる。あたかもこの報酬系に不具合が生じたような自体がどうして生じるのか?それを次回に論じよう。

 ちなみにこの報酬系の壊れた状態を私達は依存症、ないしは嗜癖と呼ぶのである。