2023年10月16日月曜日

連載エッセイ 9 推敲3

 さてここでもう少しこのDなる値について説明したい。というのもおそらくこのLとDの区別は多くの人にとってなじみがないであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はなかったのだ。しかしベルッジに指摘されてなるほど、という事になったのである。

一言でいえば、こうだ。ある事柄を体験する際にその時の快感をLとする。するとDはそのLを実際に体験した時のことを想像した量である。

 例えばあなたがある銘柄のチョコレートが好きだとする(といっても普通程度に好きだということにする。)。そして先ほど店で購入してこれから帰宅して美味しくいただこうと思っている。あなたはそれを実際に食べ、いつものおいしさだと感じる。そこでその時の快楽の体験をLとする。ここで帰宅の最中に少し時間を巻き戻そう。あなたはチョコレートを鞄に入れてしばらくは、それを帰宅してから食べていることを想像して生唾をゴックンする。その時はおそらくほぼLの量をそのまま想像したであろう。そこでそれをDとしよう。おなじLでどうしていけないかと言われそうだが、どうやらLとDは脳の別々の部分で処理されているようだし、この両者の値がこれからどんどん乖離していくことを考えているから、両者を分けたほうがいいのだ。そこでこのDの量をどのように計測することが出来るか?それはLを想像した時に、報酬系のドーパミンニューロンの興奮の量として計測されるはずだ。思い出していただきたい。サルが緑の信号を見て、「やった、これからシロップがもらえる」と喜んだ時の値に相当するのである。

 さてあなたが特にその銘柄のチョコレートに対する嗜癖が生じていないのであれば、チョコレートを購入してこれから食べようとするごとに、購入した時の先取り値Dと実際のおいしさLは一致していることになる。だから食べた時に「いつも通り美味しい」と感じるのだ。

 しかしこのDの純粋な値を計測することはサルやネズミと違って難しい。もしあなたが脳の側坐核に電極を差し込むことに合意をしても、である。というのもあなたなら、そのチョコレートを食べようと思えば、少しお金を出すだけで自由に買えるだろうからだ。そこで例えばあなたがその貴重なチョコレートを週に一つくらいの頻度でしか手に入れられないような特殊な事情があるならば、それを手に入れた瞬間に報酬系で計測されるDがLに相当するはずだ。でもそのような状況を作り出すのは案外難しいはずだ。ただし私たちはそのDをある程度予測することは出来るだろう。それは実際にそのチョコレートを食べているときのことを想像してみることだ。するとそれは例えば0.1Dなどのように、一瞬その喜びを想像上で味合わせてくれるであろう。

 ところが一つ、Dの値を計測する方法がある。その為に一つ思考実験をする。もしあなたがそのチョコレートを実際食べようと思った時点で、カバンの中を調べてもそれが見つからない場合はどうだろうか?どうやら途中で落としたらしい。その場合の失望はマイナスDとして体験する。それはドーパミンの興奮量が減少する、ということで表される。先ほどサルの実験の時に、シロップをお預けになったサルの頭で起きることとしてマイナスのドーパミンの興奮について紹介した。そのことを思い出していただきたい。

 なぜこのようなことが起きるのか。ここで秘密を明かさなくてはならない。実は脳内ではDは一定の量で常に与えられている。報酬系は弱いDつまり d を常に体験させてくれているのだ。そしてその上で期待をした時には大きなDを味わう。ところがお預けをくらった時は、それでも普通なら体験出来ていた d がゼロになってしまう。これには耐えられないのだ。つまり期待という形でLから遊離したDは、それが得られなくなった途端マイナス d という苦しみとなって帰ってくるのだ。

 しかしそれにしてもなぜこんな面倒くさい仕組みが出来ているのだろう? 一つの仮説は生命体はこの一度味わった快を追い求めるための装置としてこのドーパミンシステムが備わっているのではないだろうか。それが生存の可能性を高めるのだ。ところがこのシステムにはバグが生じることが知られている。そしてそのためにネズミの生活どころか私たちの生活自身が穏やかではすまないのだ。それを以下に述べよう。