2023年10月22日日曜日

連載エッセイ 9 推敲8

 この部分、何度書き直しても上手くいかない。

ベリッジとインセンティブ感作理論

 こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は否定されたことになったのだ。そして提唱されるようになったのが、ケント・ベリッジという学者の「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

 このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明するものとして現在注目されている。それは私たちが実際に快楽を味わうという体験(liking, 以下にLと表記)と、それを求める、ないしはそれを続けたいという願望(wishing, Wと表記)が全く異なることを示したのである。こう言われただけでは何のことかわからないであろう。そこで以下に説明しよう。

  ここからは人間の例に引き付けて考えてみる。サルやネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとっての報酬として、甘いもの、例えばチョコレートを例として考えよう。もちろん甘いものは嫌いだ、という人もいるかもしれないので、多くの人にとって当てはまる例として挙げているに過ぎないことを理解していただきたい。

 私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪り続けることは普通はない。それにはいくつかの理由がある。私たちの多くは「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって一定量以上を食べることについては自らにストップをかけるかも知れない。あるいは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」かも知れないし、単純に飽きが来ることもある。。このように美味しさ(L)は徐々に低下して、それを願望する度合い(W)もそれに伴い減少していくのだ。

 同様のことはジョギングなどの行動についてもいえる。適度の運動を快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)走ることの心地よさ(L)は次第に低下し、それにつれてまた走りたいという願望(W)も低下する。

 このようにW=Lという関係はいずれにせよ概ね成り立つことで、この仕組みは私たちの生命維持に役立っているのだ。というのも通常は生命維持に役立つ物やことがらについては心地さLが感じられ、それが過剰になればLが低減したりマイナスLになったりする(つまり嫌悪する)事で、それに対する願望Wも自然と低下する事で、それを適度で健康的な量だけ取り込む(行う)ことが出来るのだ。そしてこのことは私たちが通常当たり前に体験することであり、単純に言えば、好きなものは求め、嫌いなものは遠ざけるという当たり前の現象をLとかWを使って言い換えたに過ぎないのだ。

 ところがベリッジの考えたようにLとWを区別して考えることが意味を持つようになるのは、L=Wという均衡が破られ、場合によっては両者が大きく食い違うという事が起きるからである。それが私達が何事かにハマったり、中毒になったりする場合である。するとお腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を貪り続けたり、(過食症)、体が悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。

 そこで改めてこのLとWの違いについて考えたい。というのもおそらくこのLとWの区別は多くの人にとってなじみが薄いであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はベリッジ以前にはなかったのだ。しかし彼のISM理論により指摘されてなるほど、という事になったのである。

 特に分かりにくいのがWであろう。Lなら実際にチョコレートを食べたりジョギングしたりすることで直接に体験される。ところがWはいわばバーチャルな感覚なのだ。それはLを体験していない時にそれを想像した際に(実はここに、「今体験しているLを中断することを想像した際」も入るのであるが、ここでは触れないでおこう)感じられるに過ぎない。つまりそれは快そのものというよりは、それが欠如している時に、それをどれだけ求めるかにより間接的にしか知りようがないのである。

 その意味でWは純粋に「精神的なもの」と言い表すことが出来る。それはチョコレートの甘さやほろ苦さが直接舌の味蕾を刺激するという生理的なプロセスを得ない。なにしろチョコレートは実際に口に入ってはいないのだ。しかしあなたはそれを将来味わうことを期待して喜びを感じるのだ。

 Wはまた「記憶に結びついたもの」とも言えるであろう。それはかつて味わったチョコレートの記憶を呼び覚ますことで呼び起されるものだ。

 さてこの前提に立ってベリッジが説明しようとしたのはこのWとLが解離した状態がどうして生じるか、であった。つまり最初はW=Lを保っていたはずの両値がどんどんかけ離れて行き、W≠Lという奇妙な現象を説明する手段だったのである。すると好きでもないのに求める、という依存症に特有の現象が起こる。

依存症に苦しむ人たちを傍で見ていてつくづく感慨深いことがある。それは彼らが求めているものを同時に嫌悪しているという矛盾だ。アルコール中毒の人は酒を「美味しい」と思って飲んでいるのだろうか?ニコチン中毒の人にとってのタバコは?あるいは過食症の人にとっての食事は? 彼らはこれらのものを消費していない時にはそれを激しく求める。しかし実際に酒を飲み、タバコを吸っていても決しておいしくないという。私のギャンブル依存の患者さんははっきり言った。「スロットをやっていても苦しいんです。でも絶体に止められないんです。」苦しいことを私達はなぜ欲するのだろうか。

通常の私たちの生活には起きにくいこの不思議な現象がどうしてじるのだろうか。それは報酬系が壊れる、ないしは焦げ付くという現象であるが、これは次回に述べたい。