そしてもちろん、ここが肝心なのだが、私達の脳がまさに複雑系なのだ。そして複雑系を私たちが理解し始めたということは、脳の生み出す心についても私たちはようやく理解し始めたに等しいということである。これまで提唱されてきた様々な哲学理論、心理学、精神医学も例外ではない。それは少なくとも「複雑系」仕様ではなかったのだ。 世界を複雑系としてとらえ直す、とはどういうことかについて、心の問題とは直接関係ないが、一つ例を挙げておきたい。私たちが日常的に体験している地震を例に取ろう。地震は忘れたころにやってきて、それがいつ起きるかを予想することは極めて難しい。東海地震などは何度も予測されては肩透かしを食らってきた。しかしこの地震の起き方には、ある驚くべきルールがある事が分かっている。それは地震の大きさ(マグニチュード)と、その頻度の対数の関係を見ると逆比例の関係があるということだ。グーテンベルグ・リヒター則と呼ばれるこの法則は、1941年に発見された。これにより少なくとも地震の起きる頻度についての「予測」はかなり出来るようになっているのだ。
このグーテンベルグ・リヒター則とはわかりやすく言えば、マグニチュードが1大きくなるとその頻度は十分の一になるということである。だから頻度を対数表示すると両者の関係は直線に表されるというわけだ。そしてこのような関係(いわゆる冪[べき]乗則 power law)が複雑系の性質を最もよく表現する法則なのである。そして驚かなくてはならないのは、このような法則が、20世紀の前半になってようやく発見されたという事実なのだ。
冪乗則は人間の関与する複雑系において生じる様々なものに当てはまる。例えば株価の急落とその頻度、各人の持つ富とその人口における割合、本の売れ行きとそれが生じる頻度・・・・。
臨界状況とは何か
さて複雑系についてその面白さを語ると本一冊を費やさなくてはならないが、その中での肝の部分を紹介したい。それは臨界という現象である。それをなるべくわかりやすく紹介したい。
複雑系においてはそこで様々な現象が起きるが、特に相転移という現象が特徴的である。それはそのシステムである事件が起き、それをきっかけにすっかりそれまでと様子が異なってしまうことだ。地震などはそうである。大きな地殻変動はそこに存在していたものを破壊したり根絶やしにしたりする。自然現象を考えると最も分かりやすい地震の例を出したが、火山の爆発などもそうだ。大きさによってはその周囲にあるものを溶岩で押し流し,地形をがらっと変えてしまう。株価の大暴落などもその例だ。相転移という現象としては、まず水が暖められて気化する過程を思い浮かべるだろう。それまである程度秩序だって集まっていた水の分子はバラバラになり、お互いにはるか遠方に飛び去ってしまう。液体という層から気体という層に変換することからその現象が相転移と呼ばれるが、火山も株価の暴落も比喩的な意味での相転移なわけである。
そして複雑系において見られる相転移が意味するのは、あらゆる複雑系が、相転移の準備状態であるということだ。大地は地震や噴火が起きる前の準備状態。経済は株価の暴落を待つ準備状態。ただし皆さんはこうおっしゃるかもしれない。
「でも私たちは毎日平穏に暮らしていますよ。大きな事件(相転移)は例外的に起きることではないですか?」
ところが相転移はそのサイズがピンからキリまであり、小さい相転移は日常的に起きている。ただ大きいもの、目立つもの、私達の生活に深刻な影響を与えるものはめったに起きないというだけである。冪乗則を思い出そう。物事の深刻さがワンランク上がることに、その頻度は10分の1など(実際に何分の一になるかは、その現象により異なる)に急速に減っていく。ということは小さい相転移なら私たちは日常的に体験しているということだ。
たとえば東京に暮らしていると、小さな地震はしょっちゅう起きる。少し揺れたな、と思ってもすぐやんでしまう程度の地震は結構あり、ニュースにすら取り入れられない。しかしたまに、ヒヤッとするような揺れを感じ、テレビをつけると、数分経って地震速報が近隣の件で震度3の地震があったというような報道を聞くことが出来る。
株の変動なら、日常的に取引をしている人にとってはもっと深刻だろう。株価の大暴落はめったに起きない、などと高をくくってなどとてもいられない。それこそただ一社だけの株を保有している人なら、小さな暴落、急騰はそれこそ分刻みで起きていることを知っているはずだ。
このように考えると臨界状況は常に起きている。ただそれに慣れてしまって、意識しないだけだ。でもこれは人間関係においても起きていて、だから人との実際の面会でヒヤッとする思いを私たちはしょっちゅうしているのだ。