第8回目は右脳問題である。今回このテーマについて扱う伏線は解離について論じた第6,7回目にあった。この流れで右脳について論じない手はない。
ちなみに右脳に関しては素晴らしい導入書がある。Robert Ornstein のThe Right Mind 右の[正しい]心 という、1997年出版の、少し古い本だ。
私の今回の要点を申し上げよう。右脳こそが私たちの本音であり、true self であると言える。そして左脳はそれを正当化し、論理付け用としているに過ぎない。左脳の機能は驚くべきことに、偽り、糊塗する機能を有するとさえ言えるのである。かなり過激な言い方であるが、そこまで行っても言い過ぎでなないことについて述べたい。
第6回の分離脳に関する記述をお読みになっていて不思議な感覚にとらわれた方はいらっしゃるだろう。分離脳の患者さんが右脳の心と左脳の心を持つという事情を説明した。左右の脳は相手のことなど構わず、独自に判断を下す。左右の脳に別々の絵を見せ、「見たものを描いてください」というと、右脳は視界の左側からキャッチした形を左手で描く。左側に見せた像は左脳が右手で描く。この場合左右の手は、特に混乱することなく同時に別々の絵を描くのだ。このことが、左右脳が「お互いを構わない」理由である。両方の脳が繋がっている「普通の」私達にはこんなことは出来ない。
ためしに左右の手に鉛筆を持ち、右手で三角を、左手で四角を同時に描いて欲しい。ふつう私たちの手はどうしても左右で影響を及ぼし合い、どちらも上手くかけないものである。右利きの人が右手であれば問題なく描ける四角形を、ここまで邪魔する右脳はいったい何なのだろうか。
ところが私たちは日常生活での様々な決断を下す際に、そこまで迷うことなどないのはなぜだろうか?左脳と右脳の機能はかなり異なるにもかかわらず、両者があたかも協調するようにして活動が出来るのはどうしてだろうか?
分離脳の話に戻るが、このプロセスで右脳は何かを「考えている」のだろうか。恐らくそうである。左右別々の画像を見せると、例えばある女性の患者の右脳だけに性的にきわどい写真を見せると、顔を真っ赤にしてドギマギするが、左脳は「今日はとても緊張しているんです」などと言い訳をするのだ。(Ornstein,p.3)
この言い訳の仕方はシレっとしている、というよりはそれがもう左脳の本来の姿かもしれない。左脳は言い訳をするということに後ろめたさがない。というよりはそういう倫理的な価値観を有さないのが左脳なのである。もしそうだとしたら驚くべきことだ。
これに関しては反側無視という現象が知られる。これは右脳の機能を広範囲の脳梗塞などで失い、左脳だけになった状態に見られることだ。すると4割近くの患者さんが、左側のものを無視する。お皿の右半分のものしか食べなくなり、左から声をかけられてもそちらを向かなかったりする。右脳梗塞により左側の身体が動かなくなったことに対して、左脳は動いていますよ、とウソをついたり、これは私の体ではありません、と嘯いたりするのだ。(ちなみに逆に左脳の広範な脳梗塞の場合は、右側の無視という現象は起こらない。)