他人は本来的に地獄である?
そもそも人間は社会的な動物のはずなのに、どうしてこれほどまでに対人恐怖的になり得るのだろうか? それが適応上望ましいのだろうか? 恐らくそうだろうと私は思う。他者とは恐れてしかるべきものだ。私達が日常生活ではあまり他者を怖がらないのは、他者は危害を加えてこないだろうとたかをくくっているからだ。親しい友人Aさんと会う時はあまり警戒したりはしないであろう。それは「あの温厚なAさん」という内的イメージを持っていて、それを相手に投影しているからである。ところが通勤途中に道で見知らぬ人に急に話しかけられると、私たちはそれだけで一瞬身構えるものである。
実際自然界で野生動物が他の動物に遭遇した時の反応は似たようなものだ。自分のテリトリーに侵入してきた他の種や個体を脅威と感じ、撃退したり、あるいは退避したりするという能力を備えていない限り、弱肉強食の世界を生き残ることはできないだろう。(というよりは、そのような個体が淘汰の結果現在残っているのである)。結局つがいの相手や血縁を除いでは、他者は基本的には脅威なのである。
人間社会においても、私たちが遭遇する他者はいつどのような形でこちらに危害を加えてこないとも限らないが、それを警戒してばかりでは社会生活を営むことは出来ない。だから私達はこの警戒モードを一時的に「オフ」にして本来はよく知らない他者とも社会の中で関りを持っているのだ。ところが私たちは時にはこのオフモードに入ることが出来なくなってしまう様な病態を知っている。例えばPTSDなどの場合には、誰と会っても警戒心を解くこと(警戒オフモードをオンにすること)が出来なくなり、家を出ることそのものが恐ろしいことになってしまう場合がある。そして対人恐怖症や社交不安障害ももちろんこれに該当するのだろう。先ほど例に挙げた漫画の作者である当事者さんの気持ちもそれなりに分かるではないか。
警戒モードをオフに出来るようになるのが愛着
実際には多くの危険性をはらむ対人関係において、私達が警戒モードをオフにすることが出来るのはなぜだろうか? それを可能にするのが、幼少時の愛着のプロセスである。母親ないしは主たるケアテーカーとの密接な関係の中で、基本的な人間関係の安全性の感覚が育つ必要がある。もちろんその安全性は完全なものではなく、突然崩される可能性はある。他者はいつ攻撃をしてくるかわからないのであり、それは母親も同様である。母親も他者なのであり、赤ん坊にとっての脅威となるポテンシャルは備えているが、それがごく微量から与えられていく。ドナルド・ウィニコットは侵入impingement や脱錯覚 disillusionment という言葉を用いて、乳幼児が徐々に必ずしも安全でない外的世界へ徐々に適応していくプロセスを描いた。こうして私たちは、他者は、そして世界は安全だという幻想を持つことで毎日を生き延びていく。これが先ほど述べた警戒モードをオフにする能力である。
例えるならば私たちは頻繁に乗る飛行機が極めて低い確率で墜落する可能性があっても、そのことについて「考えないようにする」という自己欺瞞を一つの能力として獲得することで飛行機を利用できるのだ。
対人恐怖の観点からのこの愛着関係についてもう少し具体的に見てみよう。最初の対人体験は母親(あるいは主たるケアテーカー)である。いわゆる愛着が形成されるプロセスで母親と乳幼児は視線を合わせ、接触し合い、声を出し合ってやり取りを行っていく。以下に述べるようにこれ自体は複雑極まりない体験であるが、乳幼児はこれをマスターし、自然と行えるようになるのだ。すると同じことを母親以外の他者とも行えるようになる。それは父親にも同胞にも、そして親しい友達とも行えるようになる。すると見知らぬ大人に向かっても、同じようなことが出来ると考えて微笑みかけるだろう。そしてそれは大抵上手く行く。その見知らぬ他人は母親の両親だったりするから喜んで付き合ってくれるだろう。
ちなみに母親との対人体験のマスターは乳幼児にとってはとても快楽的で喜びを伴ったものであることは推察される。アラン・ショアなどの研究では、母親と乳幼児は右脳同士を互いに同期化し合って関係を続けていく。すると母親が用いて乳幼児とのかかわりを行っている眼窩前頭部、頭頂側頭連合野脳の種々の部位は、乳幼児の同様の部位を賦活し、後者の神経ネットワークが形成され、鍛えられていく。この神経ネットワークの形成は基本的には快楽的である。というかそれを快楽的と感じ、むさぼるようにして行うような性質を持った生命体が今日まで生き残ってきたのだ。
対人体験の「無限反射」としての構造
上で他者との対面状況は極めて複雑な行動をなすと述べた。このことについて少し述べたい。
そもそも対面状況で相手を見るという体験は実はきわめて錯綜している。まずこちらが相手を見る。しかしその相手はすでにこちらからの視線を浴びた他者である。人はその人の視線を浴びることになる。そしてそのような相手を見ることは、「こちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る」という体験ということになる。そしてその相手は…という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているんだろう?」という思考が入り混じるという、複雑極まりない体験となるのだ。
この様な体験を私は対人関係の無限反射として言い表すが、それは二枚の対面する鏡の間に光が入り込む状況になぞらえることが出来るからだ。光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これが「無限反射」と呼ばれる現象だ。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。
私はこのことについて考える際に、人との対面が重荷に感じられ、ストレスフルな体験となるのはごく自然の事ではないかと思うようになっている。対人体験がストレスフルなのは、この「無限反射」からくる情報量の多さとそれを処理することに投入されるべきストレスに対応するものなのだ。
無限反射をある程度ショートカットすることで対人体験によるストレスは軽減されることあがる。たとえばイヤホンで音楽を聴きながら街に出ると、周囲の人が気にならないということがある。それに自分の足音が聞こえない。それ以外にも自分という存在が立てている何らかの音が軽減されて、全体として自分自身が発している情報が減る。それに意識の半分は音楽により占められているからだ。だからその音楽は自分の好きなものでなくてはならない。
同様のことはマスクにもサングラスにも言える。マスクは少なくとも自分の顔半分を隠してくれる。だからコロナ禍から脱出している今、「マスクロス」を訴える人が多くなっているのだ。またサングラスをかけていると、向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから、自分の視線が相手に対して与えている影響の要素はかなり軽減される。すると無限反射の威力は随分軽減される形になるのだ。オンラインの場合の「カメラオフ」にも似ているであろう。とにかく対人関係はきわめて錯綜した体験が起きていて、少しでもその量が減ることが対人緊張の度合いを減らすことが出来るのだ。
同様のことは例えばベンゾジアゼピン系の抗不安薬やアルコールを用いた際の対人ストレスの軽減についても当てはまるであろう。これらの物質によりGABAを介した抑制系のニューロンが働くことで、いわば感覚が鈍磨されて対人体験はよりやり過ごしやすくなり、その楽しみの部分はそれだけ増幅される。人が酩酊して途端に多弁になり、対人緊張など忘れた状態になる様子は私たちがしばしば目にするのである。