こちらも少しずつ読み進めている。
補論Iでは、1980~90年代に精神分析界において見られた「著者が言語的な解釈を通しての洞察なのか、情動反応を基盤とする新たな関係性を通しての変化か」という対立を超えた、両者が両立して共存するという立場を表明している。そしてそれは小此木が示した立場でもあった。そして筆者がそれを症例を通して示すという意味で、本書の●●君と✘✘君を含めた6つの症例を提示している。最初の4例はいずれも言語的交流が十分に持てず、それ以外の非言語的、情動的かかわりを通して変化して言ったケースである。それらとの関りにおいて著者は微妙なタイミングやニュアンスを感じつつコミュニケーションを成立させていく。残りのE,Fは言語的な交流が可能ながらも、その内容よりは前言語的な相互交流への気付きに着目したケースである。二人の話し方は対照的で、Eは非常に間延びのした話し方、Fは逆にせわしなく立て板に水の話し方である。いずれも著者がケースを前にして感じた戸惑いが症例の言語外で生じている転移関係に由来することに気づき、そこから今、ここでの介入が開始される。
この様な視点はやはり小此木、狩野、丸田諸氏により力強く推進された後、今でもしっかり息づいているという印象を受ける。そしてその遺伝子を引き継いでいるのが著者であると実感する。補論II「心を抱えること、抱えられること」ではもう一人の症例✘✘君の治療経過について述べられる。このケースの興味深いことは、治療はそのまま26年にわたるフォローアップでもあるということだ。そして成人して幼少時の言語発達に限界の遭った自分を振り返るという貴重な内容も盛り込まれている。