対人過敏性による社交不安と被害念慮
この様に対面状況では極めて複雑で、膨大な情報量を含む体験がなされる。人が思春期に自意識過剰になり、それまで特に意識することのなかった他者の視線の持つ意味について改めて考えるようになると、そこで一種の感覚や思考の洪水に見舞われることになる。そしてその状況は社交不安や対人状況の回避傾向、更にはある種の被害妄想的な思考を生みやすくなるだろう。この敏感さと社交不安傾向ないし被害念慮との関係は従来は十分に論じられなかった点であるが、最近はより重視されるようになって来ている。私がそう考える根拠を以下にあげたい。
まず対人恐怖の理論の中に被害妄想やパラノイアの文脈は存在していた。内沼幸雄の「対人恐怖の人間学」(1977)では以下のように述べられている。「対人恐怖はかなり著しい、時にはひどく強固な妄想的確信を示すことが少なくない。この点は、古くから欧米でも指摘されていることである」(p.358)。内沼によれば、対人恐怖において視線恐怖段階で自らの視線が他者を不快にするという思い込みから「地獄とは自分である」という状態となり、それにより脅かされた他者から向けられた不愉快そうなまなざしがパラノイアの起点になると説明される。
この対人恐怖から被害念慮へと至る経路と理論的には逆向きの関係にあるのが、被害念慮や被害妄想の性質を有するパーソナリティ障害に見られる対人恐怖心性の再発見である。これに関連して最近では従来のDSMでパーソナリティ障害のA群の捉え方に変化が見られている。これらは従来は「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」(DSM-ⅢのスキゾイドPDの定義)と理解されてきた。つまり人の心に関心を持たず、感情的な動きの少ない病理と考えられていたのである。しかしその後これらの臨床群でも対人状況を模した条件下で活発な情動が働いていることが分かり(Stanfield)、スキゾイドPDの概念そのものの意義が問われることとなった。そしてDSM-5(2013)のパーソナリティ障害の「代替案」からはスキゾイドPDの姿が消え、その代わりにスキゾタイパルPDと回避性PDに解体された。そしてスキゾタイパルPDの定義として「疑い深さ」などに加えて「過剰な社交不安」が追加されたのである。すなわちA群パーソナリティ障害は「社交不安障害」により近縁なものとして概念化されなおしたことになる。そしてそこでは上述のスキゾタイパルパーソナリティ障害のように、感覚の過剰さと疑い深さが共存する形でとらえられたのである。
対人過敏性に関連した被害念慮の傾向はASDの病理において顕著に表れていると言っていいであろう。自閉症児においては視線回避の傾向が従来より指摘されていた。そしてその理由としてこの場合も人に対する興味が欠如しているからだという説が唱えられていた。しかし最近はそれとは異なる理論が提唱されている。ASDでは実際には視線を一瞬合わせてから逸らすという傾向が観察されている。そしてその原因として、他者からの視線や顔の表情などの情報をうまく処理できず、それに圧倒されているという可能性が指摘されている(Bolis, et al, 2017)。
そしてその背景にあるのが過剰な覚醒状態である(Hadjikhani,, Johnels, et al. 2017)。このことを反映して、2013年に発表されたDSM-5 では感覚過敏の感覚鈍麻がその診断基準に加えられた。
ASDの患者の90~96パーセントがいわゆる感覚処理障害 sensory processing disorder も注目されている。この障害は感覚過敏、感覚回避、低登録(感覚鈍麻)、感覚探求に分かれるという(Ide, et al. 2019)。
また近年話題となる、いわゆる感覚過敏パーソナリティHSP(Highly Sensitive Person)は、Elaine Aron が提唱した概念で、本来パーソナリティ傾向の一つである「感覚処理の敏感さ」(sensory-processing sensitivity, or SPS)が高レベルである人たちとして定義された。本来精神医学における概念とは異なるが、これに該当すると自認する人々が増えて、注目を浴びるようになってきた概念である。今や人口の15~30%に見られるとも言われるHSPである。Aron によれば、それは処理の深さ、過剰刺激、情緒的な反応性や共感、微妙さへの敏感さにおいて考えられる(Psychotherapy and the Highly Sensitive Person (2010.))このうちEmotional Responsiveness & Empathy 情緒的な反応性や共感はまさに対人過敏性の問題を指しているのである。
ところでこの対人過敏性は、他者の視線やその背後にある意図に対する敏感さを意味しているのであろうか。おそらくイエスでありノーであろう。ASDは一部の情報に対して敏感になり、他の情報に鈍感になるという、いわば敏感さと鈍感さの共存が見られる。その結果として他者からの視線に対する的外れの敏感さが発揮された結果として、それが行き過ぎて被害念慮に結びつくことすらあるであろう。
かつて自閉症を有するとおもわれる男性が若い女性を殺害した事件があった。その際は加害者は被害者に話しかけて驚いた顔をされ、「自分が馬鹿にされた」と思い込み、包丁による刺殺行為に及んだという(佐藤、2005年)。これなどはその一つの証左であろう。
そしてそれが、他人からかけられた声の調子やそこに含まれる感情などを外傷的なまでの大きさに増幅する可能性がある。何気ないコメントや忠告やアドバイスは、この上ない中傷や厳しい叱責として受け取られる。挨拶をしたらちらっとこちらを見ただけの相手が、自分を心底軽蔑したと思い込む。しかしここで同時に起きているのは、ADの持つ鈍感さ、「表情の読めなさ」なのである。そのために細かいニュアンスを感じ取れない人はより相手からのメッセージを被害的にとってしまう。
他者がその人をちらっと見て「あ、人がいる」という単にそれだけの反応しか見せなかったとしても、当人は「見られた、まずい」となっているとしたら、これは「相手の気持ちがわかる」という能力よりは、その人の特性ということになる。それに場合によってはそれが容易にオーバーシュートしてしまい、被害念慮に繋がることも十分にあり得るのだ。