2023年4月25日火曜日

地獄は他者か 書き直し 5

警戒モードをオフに出来るために必要な愛着関係

 実際には多くの危険性をはらむ対人関係において、私達が警戒モードをオフにすることが出来るのはなぜだろうか? その能力を獲得するのが幼少時の愛着のプロセスである。乳幼児は母親的な存在との密接な関係の中で、人間関係における基本的な安全性の感覚が育てられる。もちろんその安全性は完全なものではなく、突然崩される可能性はある。他者はいつ攻撃をしてくるかわからない。そして母親も他者である以上、乳幼児にとっての脅威となる可能性を備えている。現実にその要素はごく微量ながら母親により加えられていく。ドナルド・ウィニコットは侵入impingement や脱錯覚 disillusionment という概念を用いて、乳幼児が徐々に必ずしも安全でない外的世界へ徐々に適応していくプロセスを描いた。こうして私たちは、他者からの多少の侵害は深刻な脅威と捉えることなく、世界は概ね安全だという幻想を持つことで毎日を生き延びていく。これが先ほど述べた警戒モードをオフにする能力である。
 対人恐怖の観点からのこの愛着関係についてもう少し具体的に見てみよう。愛着が形成されるプロセスで母親と乳幼児は視線を合わせ、多くの場合は身体接触を持ち、声を出し合いながら関わり合っていく。以下に述べるように人が互いに対面する状況は極目て複雑な体験構造をなすが、通常の愛着関係では乳幼児はこれをマスターし、自然と行えるようになるのだ。そして同じことを母親以外の身近な人とも行えるようになる。それは父親にも同胞にも、そして程度の差こそあれ親しい友達とも行えるようになるだろう。すると見知らぬ大人に向かっても、同じようなことが出来ると考えて微笑みかけるだろう。そしてそれは大概は上手く行く。その見知らぬ他人は母親の両親だったりご近所さんだったりするから喜んで付き合ってくれるだろう。ところが他人は安全な存在ばかりではないことを知り、警戒モードが成立し始めるのが、いわゆる八か月不安における人見知りの段階である。
 ところが愛着が十分に成立しない場合は、他者は最初から脅威の対象として立ち現れることになる。愛着の次に成立すべき警戒モードは最初から存在し、それがオフな状態を体験することなく子供は育っていくことになる。
 ちなみに私がここで「警戒モード」という形で他者との体験を描きたいのは、それがある種の感覚の遮断を伴っているからである。逆に言えば対人体験は極めて多層的、高刺激であり、それが本来の対人体験の性質を示しているということだ。それについて以下に述べよう。

対人体験の「無限反射」という構造

 先ほど他者との対面状況は極めて複雑な構造をなすと述べた。それは実際に多層にわたる認知的、情緒的段階を含む。だからこそ乳幼児の中枢神経の可塑性が最も高い時期に母子関係を通してマスターする必要があるのだ。そこでここでは対面状況の複雑さについて述べたい。
 そもそも対面状況で相手と視線を交わすという体験は実はきわめて錯綜していることは少し考えただけでもわかる。まずこちらが相手を見る。その相手はすでに「こちらからの視線を浴びた」他者である。こちらはその人からの視線を浴びることになる。そしてそのような相手を見るという体験は、「こちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る」という体験ということになる。そしてその相手は・・・という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているのだろう?」という思考が入り混じるのだ。複雑極まりない体験となるのだ。内沼(1977)はその様な事情を指して以下のように述べている。「実際、対人恐怖には自・他の意識の同時的過剰が見られ、特に視線恐怖段階では患者は自分と他人のそれぞれの視線ばかりを気にして、結局は自分も他人も得体のしれない存在と化してゆくのである(p.72)。」
 
 この様な体験を私は「対面状況における無限反射」と言い表すことにするが、それは二枚の対面する鏡の間に光が入り込む状況になぞらえることが出来るからだ。鏡がお互いに相手を映し出している様子をご覧になった方は多いだろう。光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これが「無限反射」と呼ばれる現象だ。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。この様に考えると、人との対面が重荷に感じられ、ストレスに満ちた体験となるのはごく自然の事ではないかと思える。対人体験がストレスフルなのは、この「無限反射」からくる情報量の多さとそれを処理することに投入されるべき心的エネルギーによるものなのだ。
 ちなみにこの無限反射をある程度ショートカットすることで、対人体験によるストレスは軽減されることがある。たとえばイヤホンで音楽を聴きながら街に出ると、周囲の人の存在はさほど気にならないものだ。心の半分は音楽により占められているために、情報を処理できる意識のスペースは限られている。しかしそれだけではない。自分の足音が聞こえにくいため、自分自身が発している情報が減り、それに対する他者の照り返しも減少する。
 同様のことはマスクにもサングラスにも言える。マスクは少なくとも自分の顔の下半分を隠してくれる。だからコロナ禍から脱出している今、「マスクロス」を訴える人がこれから多くなるはずだ。またサングラスをかけていると、向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから、自分の視線が相手に対して与えている影響の要素はかなり捨象されることになる。すると無限反射の威力は随分軽減される形になるのだ。このことは私たちがすでに慣れ親しんでいるオンラインでの対面の際の「カメラオフ」の状態にも似ているであろう。いずれにせよ対人体験はきわめて錯綜した体験が起きていて、少しでもその量が減ることが対人緊張の度合いを減らすことが出来るのだ。
 同じようなことは例えばベンゾジアゼピン系の抗不安薬やアルコールを用いた際の対人ストレスの軽減についても当てはまるであろう。これらの物質によりGABAを介した抑制系のニューロンが働くことで、いわば感覚が鈍磨されて対人体験はよりやり過ごしやすくなり、その楽しみの部分はそれだけ増幅される。人が酩酊して途端に多弁になり、対人緊張など忘れた状態になる様子は私たちがしばしば目にするのである。