2023年4月22日土曜日

地獄は他者か 書き直し 3

  恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本稿の執筆を機会にこれまでの考えを振り返りつつ、さらに変更を加えたり深化させたりしたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」である。恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面と、それがかえって自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面との違いについて特に論じたい。

まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症に関する関心から出発した。つまり恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値の低下の感覚を伴うトラウマ的な体験ともなり得る。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」関わることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される、気恥ずかしさ、照れくささの体験は、恥辱のような自己価値の低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる。私自身もどちらかと言えばこの羞恥に関してはさほど関心を寄せないできたという経緯がある。

私がこれまでに世に出した恥に関する論考(岡野、199820072017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。

「人と対面するのはなぜこれほど億劫で、心のエネルギーを消費することなのだろう?」

私は決して人嫌いというわけではないし、人の思考や行動にはむしろ大きな関心を持っている。人と会っていて楽しさを覚えることも決して少なくない。しかし一人でいることは圧倒的に気が楽なのである。心に潤沢なエネルギーが解放されたままで過ごすことが出来るのだ。そして臨床活動をする中で同様の体験を語る人も非常に多いのである。

私がこれまで考えていたのは、人が他者との対面を回避するのは、恥辱の体験を恐れるからだ、というものであった。つまり対人恐怖の文脈で考えていたのである。しかし人は必ずしも自らを不甲斐なく情けない存在とはとらえていなくても、依然として他者と対面することに抵抗を覚えることが多い。それは人と対面する状況そのものに由来する居心地の悪さ、それに伴う労作性、疲労感、エネルギーの消耗の感覚なのである。

もちろんこれが私の個人的な体験から発しているのは確かである。人と常に群れていたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。しかしそれらの人たちにとって一緒にいたいと感じるのは親しい家族や友人であることが多く、初対面の人との出会いに抵抗を感じたりしり込みをしたりする人たちは意外に多くいるようである。もし「私は人と出会うのが億劫です」という人の声をあまり聞かないとしたら、おそらく人嫌いと思われたくないからであろう。孤立を好み、人と交わらないという傾向を持つことは、社会通念上あまり好ましく思われないからであろう。飲み会や忘年会に誘われても及び腰になることは、社交性のない人、付き合いの悪い人として所属集団から敬遠されやすいのだ。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。

ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱だけでなく、羞恥(気恥ずかしさ)の段階における体験にもさらに注目すべきではないのか。対面状況に直接由来する居心地の悪さにも、恥の体験の本質が垣間見られるのではないか、ということだ。

ちなみに恥の研究について私が私淑している内沼幸雄が「間のわるさ」と表現しているのは、(内沼幸雄(1977)対人恐怖の人間学. 弘文堂)私がここでいう対面状況に直接由来する居心地の悪さに相当するように思える(後にさらに詳述)。