2023年4月19日水曜日

地獄は他者か 書き直し 3

 敏感さに由来する被害妄想も破壊的となる

私が今回の論述でさらに考えを進めたのは以下の視点であると言っていい。私達が他者とのかかわりの中で敏感であることは、それが猜疑心を生むことにもつながる。それは特にASDで生じやすいかもしれないが、その他のあらゆる場面で人が孤立し、他者からのフィードバックを失う状況では起きることだ。それは必ずしもその人の自己愛的な病理を反映しているとは限らない。

ちなみにこれまでは恥と攻撃性についての文脈はハインツ・コフートの自己愛憤怒narcissistic rage の概念に多くを負っていた。ここで自己愛憤怒についてググってみると、私について引用してくれた論文がヒットした。そうか、私の本を買ってくれて引用もしてくれたんだ、と感謝。その論文からの引用。

稲垣実果 (2017)「自己愛的甘え」と怒り・攻撃行動についての一考察 京都聖母女学院短期大学研究紀要  京都聖母女学院短期大学 編 46 70-76, 2017

岡野(2014)は、怒りが起きるメカニズムとして、自分のプライドが傷ついたことによる心の痛みから始まるとし、その次の瞬間に自分のプライドを傷つけた(と 思われる)人に向かう激しい怒りへと変わると述べている。(p70

岡野(2014)は、怒りの背後には自己愛の傷つきがあると述べている。そして、一つの連続体として 自己愛を考えるとき、中心に健全な部分(健全な自己愛;自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安 全な環境)を持ち、周囲に病的に肥大した部分(偉い、強い、優れた、常に人に注意を向けられて当然 という自己イメージ)を持つと考えうるとしている(P71)。 このように考えた場合、健康な自己愛が侵害された際には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生 じ、これは一次的な感情としての怒りであると述べている。また、病的に肥大した自己イメージが侵害 された場合には、破壊的な怒りが生じ、これは恥が先立つ二次的感情としての怒りであると指摘している。怒りや攻撃性は、人間関係に対して必ずしも否定的な影響を及ぼすものばかりではない。

 そのとおりである(自分が書いたことだからアタリマエだ)。ただし、である。この自己愛憤怒を増強させる因子があり、それがパラノイアである。そしてそのパラノイアは過敏性に上乗せされる形で生じるというのが私の論旨である。そしてその憤怒はもちろん為政者などの力を持った存在によって表現される場合には多くの人々の命を奪うことにさえなりかねない。しかし取り立てて自己愛的な病理を有しない人もまた攻撃性を有することがある。

この問題を示すために、一つの例を挙げたい。

いま世界では戦争が起きている。ロシアとウクライナの戦闘のことだ。C国はいつ戦争を開始してもおかしくない雰囲気だし、NK国も今戦争が起きていて敵からの脅威にさらされているとでも言わんばかりのことを言う。しかしここでもっと一般化して、A国がB国に戦争を持ち掛けている状況だとしよう。

ここで意見が分かれるのはA国のリーダーが言うように、「戦争を仕掛けたのは実はBなのだ」と本気で思っているのか、ということである。もしこのような思考を本当に持っているとしたら、一種の狂気に近いもののように感じはしないだろうか?なぜなら明らかに自分たちの軍隊がB国に能動的に攻撃を仕掛けているからだ。もしB国が先に仕掛けてきたということを認識したなら間違いなく、「わがA国はB国からの一方的な攻撃に対して反撃した」と、最初から喧伝するであろうからだ。でもそれはなかったのだ。

しかしA国のリーダーが次のようなメンタリティーを持っているとしたらどうだろう?

B国め、散々我々をバカにしやがって!」 A国にとっては、昔は連邦国の一部であったB国がよりにもよってA国と敵対している別の陣営に下ることなど、まったくもって許されず、A国の顔に泥を塗る(恥をかかせる)行為だと思わせていたとしたら? ここでこのA国のリーダーの「バカにされた、けしからん!」という感じ方が正当なものかという議論をしているのではない。「恥をかかされた」とは極めて主観的な感情だ。しかし国のリーダーのその感情は、扇動的なプロパガンダにより国民に伝わり、民衆が「恥をかかされた」「コケにされた」という感情を共有するとしたら、他国への攻撃は心情的には正当化されてしまうのである。

極論かも知れないがこの「恥をかかされた、ケシカラン」という為政者の感情は、戦争を始める際の最も典型的な誘因ではないかと思う。それで思い出すのは1962年のキューバ危機だ。その前にキューバのカストロ将軍は、アメリカを訪問して友好関係を結ぼうと思った。しかし当時のアイゼンハウアー大統領はそれを受けずにゴルフに行ってしまった。そこからカストロのソ連への接近が始まったわけである。様々な政治的な背景があるにしても、カストロ将軍の「コケにしやがって!」という感情はやがてキューバにソ連のミサイルを配備させる動きへと繋がっていった…・。

ここで問うてみよう。A国のリーダーの示した攻撃性は、本当に自己愛の傷つきだけだろうか? あるいはカストロはアメリカにコケにされたというだけで核配備をすることを考えたのであろうか? ネットの記事を引用しよう(Imidashttps://imidas.jp/jijikaitai/d-40-158-22-10-g513

キューバでは1959年に革命が起こり、親米のバティスタ政権が倒されていた。フィデル・カストロが率いる革命政権は社会主義を目指すことを宣言し、ソ連と急接近していた。米国はカストロ政権を敵視し、19614月には、同政権を転覆するために亡命キューバ人に武器を与えて侵攻させた(ピッグス湾事件)。侵攻部隊はキューバ軍に撃退され、作戦は失敗に終わった。カストロ政権は、米国の軍事侵攻に備えるため、ソ連に軍事援助を求めた。それに応え、ソ連はキューバへの中距離核ミサイルの配備を決めたのである。

ここで被害妄想はもともと自己愛憤怒の産物である、と考えることもできるだろう。しかしそれ以外の状況でも私たちは容易に被害的な思いを抱くものである。そしてその一つの機序がこれまで述べた対人過敏性ゆえの overshoot である。