2023年4月13日木曜日

地獄は他者か 書き直し 1

 この原稿、のんびりしていると大変なことになりそうだ。全然まとまって行かないのである。あとひと月で締切りなのに、全然収束していかない。普通書いていくと方向性が定まっていくものだが。本腰を入れて一から描きなおすつもりで再出発する。

恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、これを機会にこれまでの考えを振り返りつつもう少し進化させていきたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」であり、恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面と、それがかえって自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面との関係性を明らかにしたい。

まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べたい。私はいわゆる対人恐怖症に関する関心から出発した。つまり恥の病理性について主として考えてきた。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱」と呼ばれる体験は、深刻な自己価値感の低下を伴う一種のトラウマ体験ともなり得る。人はそれをいかに回避するか、過去のその様な体験といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして生き続ける。それが対人恐怖やいわゆる「社交不安障害」(米国のDSMに従った概念化)の主たるテーマということになる。そしてその一方では「羞恥」として分類される、気恥ずかしさ、照れくささに関しては、さほど病理性のないものとしてあまり関心を向けてこなかったという経緯がある。

さて恥についての一連の著作を世に送り、一段落ついてもう一度日常体験に照らして思い返すのは、「人と対面するのはなぜこれほど心のエネルギーを消費することなのだろう」、「なぜこれほど億劫なのだろう」ということである。私は人と対面することで著しい自己価値の低下を伴うということも特になく、昔に比べたら少しは自信を持てるようになってきている。それに人との対面は様々な喜びや充実感を与えてくれるのもであることも事実である。しかしそれでも人と出会うことは億劫でありエネルギーを要することである。

もちろんこれが私の個人的な体験であることはよく分かっている。人と会いたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。ただしそれと同程度に人と会うことへの抵抗を覚えている方も多くいるようだ。もしそれほどその様な人に出会わないとしたら、おそらく「人嫌い」であることが社会通念上あまり好ましく思われないからであろう。飲み会や忘年会に誘われて及び腰になることは、社交性のない人、人付き合いの悪い人として集団から敬遠されやすいのも確かであろう。だから社交的であるという体を装う必要上、人と会うのが億劫と表立っていうことにはかなりの抑制がかかるものである。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。

ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱だけでなく、羞恥(気恥ずかしさ)にも注目すべきではないのか。むしろそちらに恥の体験の本質が見いだされるのではないか、ということだ。

人と出会うことについて考えるときに私の頭にほぼ自動的に浮かんでくるのが、サルトルが語ったという言葉である。「地獄は他者だL'enfer, c'est les autres」そうか、他人は地獄なんだ。だから敬遠しても当然なのだ、という安心感を与えてくれるのである。それをかの偉大な哲学者が保証してくれているのだ。

ちなみにサルトルは「出口なし」という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉を言わせるのだ。しかしそれは「他人は怖い」という対人恐怖的な意味で言っているのでは必ずしもないという。私たちは自分たちの他の人の目を通して知ることになる。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。ということで私のこの引用は私なりのバイアスがかかったものだということはお断りしなくてはならない。