2024年1月29日月曜日

連載エッセイ 12の4

 脳科学が示す非決定論的な心の世界


 精神療法の流派は様々であるが、基本的に決定論的な心の理論をベースにしていると考えて差し支えない。それは基本的にはフロイトの無意識の概念に根差す。無意識が症状を、ジョークを、自由連想を、夢を、転移状況を構成する。という事は例えば症状には意味があるというわけである。しかし第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。それは意識はあくまでも「随伴現象」であるということだ。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも。

連載第5回からの以下の引用の内容を思い出していただきたい。

 「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象であるという立場をさす。つまり脳における現象の結果として心が生じると考えるのだ。 (中略) しかしこのように言うと次のような質問を受けるかもしれない。

「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」 

たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのだ。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。

 さてこの事実を精神療法に応用しようとすると、極めて難しい問題が生じることが分かる。なぜなら脳科学的には「人間に自由意志はない」とわかっていても、私達は自由意志にもとずく決定論的な心の理論に従うことなく治療を行なうことは極めて困難なのだ。例えば私たちが患者に共感の気持ちを伝える時も、それが心からのものであることを前提とするだろう。それが「authenticity 真正さ」の感覚を生む。治療者が「脳の指令を受けたからではなく、主体的、自発的に心からそう感じている」という感覚を互いに共有するのだ。その前提なしには何も治療者―患者の間で共有できないとさえ言えるのではないだろうか。 

 それでもあえて随伴現象説を念頭にして治療を行うとしたら、一つの重要な心構えが要請されることになる。それは患者さんの言動はしばしば偶発的、創造的、という事だ。そしてもちろん治療者である私達にも同じことが言える。この偶発的、という事は新しい、と言い代えてもいいし、「でたらめ」と言ってもいい。不可知的であるとも言える。しかしやはり聞こえがいいのは「偶発的」なのでこれで行こう。英語で言えば serendipitous である。