2024年1月20日土曜日

連載エッセイ 12の5

 ニューラルネットワークとしての心の在り方を理解する

私がこの連載の最初の数回で論じたニューラルネットワークの話との関連でのアドバイスである。私自身は脳をニューラルネットワークとして理解することで、精神分析的な人間観に不足していると感じられた部分がだいたいは腑に落ちたという体験を持った。もちろん人の心は複雑すぎてわからないが、どういう意味で分からないかが少しわかったのだ。それは一番わかりやすい概念を用いれば、複雑系だからである。
 例えば宇宙や生命現象についてある程度の知識を持っている人は、それが複雑系であり、それゆえのわからなさであるという事が大体つかめているだろう。そして心も同じなのだ。そして脳をニューラルネットワークとしてとらえるという事は、それを複雑系としてとらえることと同じである。(と、少なくとも私は理解している。)だから心を理論的に説明しようとする試み自体が間違いなのである。
 このことは患者を前にした心理士にとっても同じことだ。患者の心は基本的には複雑系であり、極めて局所的に、極めて短時間でない限りは因果律に従わない。  分析的な心理士は患者の連想を通して様々なことを耳にするが、精神分析的な理解ではそれらがどのような無意識を表現しているかに常に注意を払うことを教える。特にその教えに強いインパクトを与えたなら、それによりかなり無理をしてまで心を分かろうとするのだ。  なぜ心理士はそこまで心を分かろうとするのだろうか。おそらくわからないことに後ろめたさを感じるのだ。するとたとえば私たちは患者の夢に意味があると信じたい。しかしそれはそうである場合もそうでない場合もあり、両者を区別する決め手は実はないのである。たとえばある作曲家の心に浮かんだメロディーを考える。その旋律が細部にわたって何かを象徴していると考えるだろうか、あるいはそれは重要なことだろうか?その作曲家の小児期を反映しているだろうか。確かにそれは子どものころ聞いたメロディーの断片を借りているかもしれない。しかしではほかの部分はどのように構成されているのか、となるとたちまちわからなくなってしまう。だから作曲家の書いた曲から彼の無意識を伺い知ろうという事を普通考えないのだ。だったらどうして夢の内容ならそれが出来ると考えるのだろうか。

 さてこのように書くと私はフロイトの無意識を軽視していると言われるのだろうか。むしろそうではない。私自身は無意識とはニューラルネットワークだと言い切ってもいいと思っている。 シンプルな言い方をするなら、ニューラルネットワークの自律的な活動の一部の、意識化された部分を除くすべてが無意識ととらえるのである。ただしこれは意識されない部分としての無意識であり、フロイトの用いた意味とは少し異なるが。

フロイトの「無意識」(こちらは「」付にしよう)は、フロイトのいわゆる「構造論的な無意識」ということになり、それがネットワーク内に存在するかどうかも不明になる。それはそこに意識化したり直面したりすることに抵抗を覚えるような心の内容を抑圧しておく場所、という意味であるが、そのような場所がネットワーク上に存在するかと言えば、かなり難しい問題となる。抑圧を根拠づける理論もネットワーク的には今もって不明と言わざるを得ない。それよりは私は解離の概念を用いて説明することが多くなっているが、ここではそれに触れないことにしよう。  とにかく私が心理士に対して伝えたい教訓は以下のとおりである。無意識は広大でそこで様々な自律的な活動が生じているような場である。それを説明したり、推測したりするには、無意識はあまりに深淵であることが多い。ニューラルネットワーク的には、抑圧の機制をうまく説明できない以上、患者の症状や連想についてその解釈の作業にエネルギーを注ぐよりは、それらをそのまま受け止め、それについての連想を促し、それに共感することを旨とするべきであろう。それがいかなる洞察を導くとしても、それが最初のステップになるのである。