2024年1月22日月曜日

連載エッセイ 12の7

 今回はこの連載エッセイの最終回である。テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私自身が臨床家であり、脳の話は人の心を考えてそれを臨床に応用する上で非常に役に立つと思っているからだ。純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれるからこそそれを読者に語りたくなるのである。  しかし脳の話をしながら、カウンセリングの場面でどの様にそれを応用すべきかについての話題に移ることは実際は容易ではない。というよりはあるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまう。だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、当然そのようなお叱りを受けるとしても当然である。そこでこの最後の章は「臨床家にとっての脳科学とは?」という話題についてもっぱら論じたい。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を指すことにする。)  ところで繰り返すが、私は脳科学の専門家ではない。精神科医、精神分析家という立場の臨床家である。そして私は自分が勉強する脳科学について臨床家に伝える通訳のような立場だと思っている。それだけ臨床家として脳科学的な知識を得てよかったと思うことが多いからなのだ。  では脳科学的な知識の何がありがたいのか。それはその様な知識は大抵「昔から、患者さんのいう事は正しかったのだ」という事を納得させてくれるからである。  私達は他人がある体験を話す時、それをにわかには信じがたいと思うことが多い。臨床家なら多少覚悟をしているから、話を最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という素の反応を心のどこかでしていることが多い。  例えばある人が誰もいないはずの家の中で人の姿を見たと報告する。おそらくいわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるはずなどないだろう」と考えがちだ。患者さんの話ならその話をそのまま受け取る傾向があるだろうが、もし家族の一人にそのように報告されたら「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ね返したくなるだろう。「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。恐らく家族が幻覚を体験したと思いたくないという力も働くだろう。そして臨床を経験していない一般の人ならなおさらそのような傾向があるであろう。  ここで「気のせい」というのは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だ。そしてこの「思い込み」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。「人騒がせなことを言うな!」という感じだ。  私達は一般に患者さんの訴えに関してそれを思い込み、気のせいという風に決めつける傾向があるのだ。そしてそれは私たちの中の、その話を真剣に受け止めることへの抵抗が隠されているだろう。幻聴は何か深刻な病気を思わせる。それが家族の誰かにより経験されていることを信じたくないだろう。それにそのような在りそうもない話を聞くことで自分の心がざわつくという事もあるかもしれない。「面倒くさいことを言わないでくれ」というわけだ。  この症状は自作自演、という発想は、残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。(いかんいかん、またフロイト批判になってしまいそうだ。)  しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。ここで彼のいう精神分析的な考えとは恐らく、「幻視はその人が持っている無意識的な願望の表れである」という、上述の自作自演的な考え方であろう。de Morsier 先生はそれに反対し、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。そしてそれは現代にも引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されているという。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.)

 最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患で、ある共通したことが起きるという。それは大脳皮質と視床との間のやり取りの異常な昂進であり、あたかも実際の視覚体験により生じる大脳皮質と視床とのやり取りと同じことがなぜか生じているという。だから実際に、本当に何かを見ている、という感覚が生まれるというわけである。これは少なくとも「気のせい」のレベルの問題ではない。

  フロイトは分析家である私にとってのヒーローだがからあまり悪く言いたくないが、心理療法の先駆けとなったフロイトの精神分析は、「患者の訴えを真に受けない」という姿勢の先駆けになったという所がある。それはそうだろう、患者の表面的な言葉には、しかし脳科学的な知見は、患者の訴えには十分根拠があったという事ばかりを教えてくれている気がする。

 最近の研究では、本連載の後半に私が扱った精神障害、例えば解離性障害、嗜癖、トラウマ関連障害等に関する脳科学の知見が教えてくれることは決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の意志が弱いのではないか、甘えているのではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになるということである。

「体に悪いと思っているお酒をどうしても止められないんです」(依存症)

「違う場面で違う人と会っていると、別々の人格が出てしまう」(解離性障害)

「誰もそこにいないのは分かっているのに、人の姿がありありと見えてしまうのです。」(解離、精神病、薬物などによる幻視体験)