今回は最終回である。テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載中、「そもそも脳科学と心理臨床というタイトルを付けながら、心理臨床について述べていないではないか!」という批判を覚悟していた。編集の方から特にその様な話を聞いてはいないが、当然そのように思われても仕方ない。しかし脳の話をしながら、カウンセリングの場面でどの様にそれを応用すべきかについての話題に移ることは実際は容易ではない。というよりはあるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまう。という事でこの最後の章はこの「臨床家にとっての脳科学」という話題についてもっぱら論じたい。
今更思うのだが、私は自分が脳科学の話をするという事が何か不思議な気がする。私は脳科学の専門家ではない。でも脳科学的な知識を得ることによる感動を書いているうちに専門家という事にいつの間にかなってしまう。ましてや「脳科学と心理臨床」などと言うタイトルでエッセイを書くに至っては、自分は脳科学の専門家であるという風に自認していると取られても仕方ない。私がこのエッセイを書いたのは、私が脳科学の専門家だからではなく、臨床家として脳科学的な知識を得てよかったと思うことが多いからなのだ。そのことはここでお断りしたい(もう遅いか?)
では脳科学的な知識の何がありがたいのか。それはその様な知識は大抵「患者さんのいう事は正しかった」という事を納得させてくれるからである。
例えば患者さんが誰もいないはずなのに人の姿を見たという。いわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるなんて、気のせいじゃないか?」と考えがちだ。「気のせい」というのは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だ。そしてこの「思い込み」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。人騒がせなことを言うな、という感じた。私達は一般に患者の訴えに関してそれを思い込み、気のせいという風に決めつける傾向があるのだ。そしてそれは残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。
しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。つまりてんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。それは現在の脳科学的な研究で再認されているという。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.)
最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患で、ある共通したことが起きるという。それは大脳皮質と視床との間のやり取りの異常な昂進であり、あたかも実際の視覚体験により生じる大脳皮質と視床とのやり取りと同じことがなぜか生じているという。だから実際に何かを見ている、という感覚が生まれるというわけである。これは少なくとも「気のせい」のレベルの問題ではない。
フロイトは分析家である私にとってのヒーローだがからあまり悪く言いたくないが、心理療法の先駆けとなったフロイトの精神分析は、「患者の訴えを真に受けない」という姿勢の先駆けになったという所がある。しかし脳科学的な知見は、患者の訴えには十分根拠があったという事ばかりを教えてくれている気がする。
本連載の後半に私が扱った精神障害、例えば解離性障害、嗜癖、トラウマ関連障害等に関する脳科学の知見が教えてくれることは決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさないが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その意味をより理解できるようになるということである。
「どうして悪いと思っている薬物の使用を止められないのか?」(依存症)
「どうしてその場で異なる人の様な振る舞いをするのか?」(解離性障害)
「どうして実際にそこにないものがあるもののように見えてしまうのか?」(幻視体験)