心は脳からの発信が最初でも、それを自分の主体性から発したものと勘違いするという性質を持っている。私達の能動性の感覚は、それ自体が脳の性質の産物という事が出来る。 意識についてのエッセイという論文で、私は「主観性の錯覚の兆すところ」という項目を設けて以下のように書いた。
前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という錯覚ないしは幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時想起、参照するためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。
治療とは反復と新しい経験の弁証法である
上述のことを現在の精神分析における一つの考え方と照らし合わせたい。それはI.Hoffman が示す次のような定式である。
「治療とは反復と新しい経験の弁証法である」
そしてこの治療プロセスについて最も重要な概念としてエナクトメントの理解とその活用についても述べたい。
治療とは常にそこで起きていることの意味を考えることだが、これは実は以前から言われている「ヒア・アンド・ナウ」のことである。そして新しい体験が生まれ、それが左脳の検討を介して両者に受け入れられること、それにより言語化されることが重要なのである。
治療とは反復である、という原則はフロイトに端を発する。彼は「想起、反復、徹底操作」という論文の中で患者は「想起する代わりに反復する」という原則を提示した。それは患者が過去に体験したことを思い出す代わりに繰り返し行動化するという事である。この考えは転移という概念に最も如実に表れていると言っていいだろう。すなわちフロイトの理論では反復=行動化=転移であり、それは記憶を想起して言語化することと対置的にあるという考えだ。この考え方は抑圧という概念と表裏一体だ。抑圧されているものが意識化される時には変形を被っている。しかしそこには主として象徴化という働きが起きているから、表に現れる行動や反復に含まれた意味を推察、解釈することができる ・・・・・・・・ とフロイトは考えた。
さて現代の脳科学に基づく心の理解に従うと、先ほどの「随伴現象説」の意味するところは臨床家はそれを常に加味しなくてはならない。意識化したくないことを(ある意味では意図的に)抑圧するというプロセスそのものがある種の心の能動性を前提としている。しかし実は心は本来受動的でしかない。すると治療状況において起きたこと(エナクトメント)についてそれを素材として常に反省の対象とすることが重要になる。しかもそれは「背後の意味を探る」という事に限定されない。むしろそれが両者にどのようなインパクト与えたか、という未来志向的な考え方に繋がらなくてはならない。
少し具体的な例があったほうがいいであろう。
患者がセッションに遅刻をして現れる。治療時間として設定された50分のうちすでに10分が経過した時点での開始である。患者は特にそれについて 遅刻を認める短い言葉を発しただけで悪びれる様子もなく、いつもの様にセッションを開始しようとする。それに対して治療者は治療を軽視されたという気持ちになる。
私たちは能動性という錯覚に浸りきっているから、あらゆる行動に背後にある能動性を読み込む性質がある。すると10分遅れてやってくるという行動にも背後に意図を読み取る傾向にある。
ここでややこしいのは、10分遅れてセッションに到着するという行動を起こした患者さん自身によっても、それは自分がそう選択したものであるという方向へのバイアスがかかっている。「私は結局は意図的に遅れたのかもしれない」。電車の遅延などのよほど明確な外的な事情がある場合を除いては、「あなたは治療に来ることに積極的ではなかったのですね」と仮に治療者に指摘されたとした場合に、それを自分自身でなぞることさえありうる。すると今度はそれに対する反動が生じて「どうしてそんな失礼な指摘をするのでしょう!」という反応が起きてもおかしくない。
しかし人間の行動はかなり恣意的で偶発的である。セッションの到着のように、本来は何時に訪れても自由である場合(セッションに対する支払いは遅刻などに関わらず一定であるため)、人は時には遅れてやってくることも、早めに到着することもある。その様な揺らぎは常に存在するのだ。そうではなく絶対に遅れてはいけない予定の場合(例えば治療者にとってのセッション開始の時点での到着の様に)、その揺らぎの要素を失くすべく様々な注意を払うものである。
ただしこのような書き方をすると次のような反論を受けそうである。「では本当に治療に行きたくないという気持ちがあったので遅刻する、という事はないというわけですか?」もちろんそれは生じうる。ソマティックマーカー仮説を御存じだろう。セッションに行くことを予知した時に、体がそれに抵抗を示す。結果として出かけることへの抑制がかかる、と言う機序は生じていたかもしれない。そしてこれもまた脳が最初に動いていると言えるだろう。その意味ではこのような機序が介在していたとしても、やはり「随伴現象説」に帰着させることができるのである。
結局随伴現象説は、心の因果関係(と私達が呼んでいるもの)の全否定ではなく、ただそれは決して万能ではないという警告となっているという事だ。