2024年1月21日日曜日

連載エッセイ 12の6

 ニューラルネットワークの個人差と誰にでも眠る「プチサバン」の可能性

 この連載では発達障害についてあまり取り上げなかったが、自閉症スペクトラム障害(以下ASD)と言われる状態は脳科学的に見ても非常に興味深い。特に彼らの一部が見せる「サバン傾向」は、脳科学の深遠さを伝えてくれる。「誰でもサバンになれるポテンシャルを持っている」というとしたらそれは極端であるが、「問題はそれに抑制がかかっていることかも知れない」という発想は素敵だ。私たちはさまざまな能力を、独創的な発想を、創造性を、恥ずかしさや後ろめたさや不安のためにがんじがらめに縛りつけて発揮されないようにしている可能性がある。その縛りはしばしば患者本人にも気がつかないし、その周囲の人々にも気がつかない。心理療法家はその抑制を少しだけ取り除くことに貢献できるかもしれない。それによりサバンは無理でもその患者の持っている感性や才能が花開く可能性がある。心理療法をそのようなポジティブなものとして捉えることができるかもしれない。

ここではサバン傾向をASDとの関連で述べているが、サバン傾向自体はASDでなくても発揮される可能性がある。ためしにネットでサバン症候群の定義をググると、次のような感じで出てくる。
 サヴァン症候群とは、自閉スペクトラム症などの発達障害や知的障害があり、かつある分野において突出した能力を持っている状態を指す。自分のほかの能力に比べ突出して高い能力を持つ「有能サヴァン」と、世間全体の中で見ても突出した能力を持つ「天才サヴァン」の2タイプがある。(「Litaliko発達ナビ」から。)

この言葉自体はその様にして生まれたのであるが、では藤井聡太さんや大谷翔平さんはどうだろうか?彼らは「天才」であるがASDには見えない。恐らくASDの中に天才が生まれる可能性が高いというだけで、ASDがサバンの必要条件というわけではないのだ。

そう、無限とも言えるニューラルネットワークが備える機能のある部分がたまたま他の人に比べて優れている、という可能性はいくらでもあるのではないか。藤井さんがたまたま将棋のないどこかの第3世界で生まれ、小さい頃から過酷な労働を強いられていたら、彼の将棋の才能は見いだされなかったであろう。でも彼が将棋を選ばずに囲碁を選んだら、この世界で天才と言われるようになっていたかもしれない。(あるいはまったく向いていなかったこともありうる。)あなたが自分には何の取り柄もないと思っていても、例えばひよこのオスとメスを一瞬で見極める能力が高かったりするかもしれない。たまたまそれに出会っていなかっただけかもしれないのだ。するとクライエントに眠るサバン(別にプチサバンでもいいではないか)を見出す役割は親や学校の教師だけでなく、セラピストも担っているとは言えないであろうか。

もちろんこれは「イディオ」にも言える。(イディオとは白痴、という意味を指し、差別的なので用いられないが、特に劣っている部分という意味でここでは使おう。サバン症候群は昔はイディオ―サバンと呼ばれていた。つまり自閉症の人の一部が能力が低い部分と高い能力を混在させていた状態をこう呼んでいたのである。) 私たちは個々の人間が特に低い能力を備えている可能性についても知っておかなくてはならない。「プチイディオ」もすべての人に眠っている可能性があるのだ(こちらの方はむしろ見つかりやすいかも知れない。)