・・・という感じでこの論文は進んでいくのだが、私がこれまで何度も試みたように、どうもわかったようでわからないところがある。短い論文だが結局不全感が残る。1968年にウィニコットはこのもとになる発表をニューヨークで行ったが、聴衆の反応が今ひとつであったという。要するに聞いていてよくわからなかったのだ。そのことも手伝ってか、ウィニコットはその後に奥さんと共に風邪をひいてしまい入院することになる。それが彼の死期を早めてしまったのだ。
だからと言ってはナンだが、この論文が理論的にわからりにくいことは確かなのであるらしい。特に対象が生き残ることと仕返しをしないことが等価におかれているあたりはやはり分かりにくい。たとえそこにどんなに深い洞察が込められていようと、伝わらなければしょうがないではないか。そこでここからは私の意見である。
まずある対象が自分の想像の外にある他者であるという事はどのようにわかるのか。すでにどこかで書いているように、モノはすでに赤ん坊の周りにあふれている。最初は原投影(安永)が起きるのかもしれない。でも赤ん坊はすべてにそれを起こすわけではない。自分の周りのぬいぐるみが全部生きているように感じても、壁も、電灯も、ガラガラも皆生きているとは思わないだろう。たとえば哺乳瓶は自分に滋養を与えてくれるもの、優しい母親のような存在だと思っても、自分が落として転がっている哺乳瓶は、いくら呼んでも応えてくれない。母親は事態を察して魔術的に哺乳瓶をこちらに戻してくれるかもしれないが、それが常に起きるわけではないことを赤ん坊はやがて察していく。そのようにして母親に脱錯覚が起きるとしたら、周囲のモノに対するそれはとうに起き始めているだろう。赤ん坊は身の回りの多くのモノにかつては原投影を起こしたかもしれないが、それらの多くはすでに生きてはいない、死んだモノになってしまっているだろう。そして実は母親も時には自分にとっては死んだような存在になり、つまりはモノのようになってしまうことを赤ん坊は知る。自分とは無関係で注意を向けない母親はすでに背景に退いているし、赤ん坊も満腹で満ち足りたときには別のものに関心を寄せているかもしれない。
さてそれとは別に、「他者」の存在もまた赤ん坊が早くから体験していることだろう。それはおそらく人見知りの起きる8ヶ月くらいには生じる。しかしそれ以前に遭遇しているはずだ。生後4,5ヶ月の赤ん坊だって、自分に向かってほえてくる犬を怖れるだろう。自分に危害を加えてくる生き物、場合によっては人はかなり早期からそれと認知し、それを回避するという能力が備わっていない限り、あっという間に「ジャングルの掟」の犠牲になってしまう。生まれたての動物だって天敵から身を守る能力はすでに持っているはずだ。人見知りとは、これまで母親と同じような姿かたちをした他の人間に対しても警戒する必要があることを学習するにつれて、般化が行き過ぎた結果えであろう。つまり「母親と異なる人についてはとりあえず怖れるべし」という学習の結果なのである。とすると、赤ん坊が母親を別の主体として理解することは、何も母親がまったく別の表れ方をするということではなく、母親は自分に危害を加えたり自分に無頓着であったりするような姿を示しうるという理解ということが出来ないだろうか。
ということで私が想像する他者の出現は、ウィニコットが考えたそれとは随分違ってくる。これまでかなりウィニコットの主体の出現にまつわる議論をそのまま信じていたが、改めて考えてみると、これも一つの理論に過ぎないということか。唯一ついえるのは、おそらく精神分析とは、他者が自分の想像の域を超えた姿を見せることがどういうことなのかを、治療者という他者との間で体験していくことなのであろう、ということだ。つまり内的世界のみに留まる理論には限界があるということである。