2019年5月26日日曜日

AIと精神療法 ⑨


AIに精神療法は可能か、というかなり無茶ブリに近い依頼原稿に応じて書いているうちに、ずいぶん整理されて分かってきたことがある。言っちゃ悪いが、精神療法はそんな大層なものではないのだ。療法家はさほど高尚なことをやっているわけではない。もちろん人間の療法家は極めて高度な脳の働かせ方を行っているのだろう。前頭前野フル回転である。偉大な芸術作品が生まれる際などには人間の脳はAIが何百年かけても追いつけないような高度でかつ複雑な思考プロセスを踏んでいるのかもしれない。しかし人が療法家と対話をしてなにがしかの洞察を得る場合、その鍵は常に来談者の側にある。療法家がいかに深遠なことを言っても、それがそのまま来談者に伝わる可能性は極めて低い。療法家の解釈から深遠なメッセージを受け取るとしたら、それは来談者の心の深遠さの表れなのである。何しろ道に転がっている石を見て,ハッと悟りを開く禅僧もいるのである。それに療法家の言葉も恣意に満ちており、来談者もその療法家の言葉のごく一部を、それも歪曲して受け取っているにすぎないのだ。だからこそ治療者の位置にAIロボットが置かれても、来談者の側が勝手にそこから多くのものを吸収していく可能性があるのである。
それでは来談者にとって療法家のどのようなかかわりが一番効果を発揮するのか。それは外から見た自分の姿を伝えてくれることである。要するに外部からの視点なのだ。だからこそ自分を映した一枚の写真野、自分の話し声を録音したクリップに衝撃を受けて自分を見直すきっかけになったりするのだ。そしてそれらの例でわかるとおり、「どう見えるか」には人の主観が混じっていないことに意味がある場合が多い。あれほど精神分析で言われた中立性を持つことは、実は本来心を持たないAIには容易く、人間は決して勝てないのである。そしてそこに人の心を癒すためにAIが一役買うことが出来る、というちょっと考えたらありえなさそうな可能性が横たわるのである。だから私の考えは、「AIには人間にとても及ばないが、代わりに果たす機能はある」という、最初に向かっていた結論とは違って来ていることを告白しなくてはならない。AIにはAIの強みがあり、それは生きた療法家には決して果たすことのできない鏡の機能というわけである。こんなことを行ったら絶対反対されるな。