2019年5月29日水曜日

書くことと精神分析 3


自験例

私はかなり前に、「精神分析における恥」という論文を書きました。これは単著であり、特に本になる予定はありませんでした。ただし本を書きたいという気持ちは当時から持っていたことは確かです。しかしどうやって書いたらいいか見当もつきませんでした。私には特に指導教官もいなかったし、そもそも論文一本を書くことにまだ数少ない成功体験しか持っていなかったのです。
ここで博論に広がるような論文を、一応「種(たね)論文」と呼ぶことにします。例によって私の思い付きの命名です。そして私の「精神分析における恥」は結果的に種論文になったのです。米国で会い始めたある患者さんが対人恐怖気味で、自分に自信がなくて恥じる気持ちが強く、それに押しつぶされるような気持ちで人に心を開けないという方でした。精神分析では、恥ずかしい、恥じる、という感情を論じたものが伝統としては非常に少なく、むしろ怒りや罪悪感がテーマとして扱われる傾向にある、という背景がありました。
さてこのままでは「精神分析における恥」が種論文になる要件はあまりそろっていなかったといえます。ただしここには一つの重要な要素がありました。それは「どうして精神分析では恥を扱わないんだろう?」という疑問が、私の生の体験であり、おそらくかなり本質的な深い問だったという事です。もしある論文を書くもとになった体験がかなり深く、インパクトがあり、人生のいろいろな場面で突き当たるような問題であるならば、これは種論文の主題として一番いいものということが出来ます。それはそれ以外のテーマと比べればわかることです。たとえばある論文に書かれたある理論についてその一部に異論を持ち、そこの部分だけ修正したいという趣旨の論文を書いたとします。それはあまり根幹部分の問いとは言えず、種論文にはなり得ないでしょう。もう一つの例としては、これまで十分に研究されているある昆虫の種とほんの少しだけ違った新種を発見して、それを発表する、というのであれば、それは一回限りで終わり、種論文にはなりません。しかしある未開地でこれまでにまったく報告されたことのない種類の生き物を発見し、そこに属する沢山の種を見出す可能性があったら、それは立派な種論文です。
またある臨床体験で、特殊なケースとの特殊な、しかも一回限りの体験があっても、それはケース報告で終わってしまうでしょう。しかしこれまではあまり注目されてはいないものの、長い間見過ごされていた一連の疾患が再発見されるきっかけとなる報告なら、立派な種論文です。そして臨床で恥の体験を語る人が多い、でも精神分析では扱われないという体験は、私が多くの患者について感じたことであり、また深く考えさせられていることだったのです。つまりこのテーマは多くの文脈で語り直すことが出来たわけです。
こうして最初の恥に関する論文を書き上げた時点で、私の中には同時に様々な関連するテーマが浮かんでいました。どうして恥の感情は精神分析ではあまり語られなかったんだろう? それに比べて精神分析で主人公として扱われる罪悪感というのは、恥の感情とどのような関係にあるのだろう? 恥の病理としての対人恐怖は、精神分析の対象にならなかったのか?恥と感情と同時に患者が表明することが多い怒りの感情はどのように扱うべきか? コフートの自己愛の理論と恥とは関連があるのではないか? 恥の議論と自己愛のテーマはどのように関連するのか? これらのテーマがいろいろ頭の中にわいてきて、実はそれぞれが後に独立した論文として書かれるようになったわけです。その意味で私の最初の論文は「種論文」の役割を果たしていたということになりました。思えばずいぶん運がよかったことになります。