2019年5月21日火曜日

黒幕さんの生成過程 推敲


付録 黒幕人格が形成される過程について


本文の中で黒幕人格について論じた際に、あまり明確な形で論じていなかったのが、いったいそのような現象が人間の脳の中でどのようにして生じるのか、ということでした。もちろん脳の中に人格が宿るという現象そのものが、極めて不思議なことです。しかし、たとえば夢に誰かが出てきて自分が想像もしないような行動をとることがありますが、それも人格が脳に宿った状態といえ、これも考えてみれば不思議な現象です。本来私たちの脳で起きていることは考え出すと不思議なことばかりで分からないことだらけなのです。
黒幕人格がどのように形成されるかも、詳しいことが分からない以上はある種の想像を働かせるしかありませんが、それによりいくつかの仮説のようなものが生まれます。そしてそれを仮説は仮説なりに頭の隅に置いておくことで、臨床的な理解が深まるかもしれません。そもそもそれらの仮説は、臨床で出会う様々な現象や逸話をもとに、それらをうまく説明するように作り上げられたものなのです。

黒幕人格と「攻撃者との同一化」
 黒幕人格に出会うことで一つ確かになることがあります。それは人格は基本的には「本人」とは異なる存在、いわば他者だということです。ここで私が言う「本人」とは、いわゆる主人格や基本人格など、その人として普段ふるまっている人格のことです。「黒幕人格」以外の、基本的には自分たちを大切にしている人格たちという意味だと考えてください。「本人」は自分がしたいことをし、身に危険が迫ればそれを回避するでしょう。しかし「黒幕さん」(こういう呼び方も使いましょう)は大抵は「本人」に無頓着な様子を示します。そしてしばしば「本人」達の生活を破壊し、その体に傷をつけるような振る舞いをします。「黒幕さん」が去った後は、「本人」は何か嵐のような出来事が起きたらしいこと、それにより多くのものを失い、周囲の人々に迷惑をかけてしまった可能性があること、そして周囲の多くの人は自分がその責任を取るべきだと考えていることを知ります。それは「黒幕さん」の行動の多くが攻撃性、破壊性を伴うからです。ただし彼らのことを深く知ると、その背後には悲しみや恨みの感情が隠されている場合があることを、「本人」も周囲も知るようになるのです。いったいなぜ「本人」が困ったり悲しんだりするような行動を「黒幕さん」たちはしてしまうのでしょうか? 彼らが示す怒りとはどこから来るのでしょうか。
この「黒幕人格」がどのように成立するかに関して、ひとつの仮説として「攻撃者との同一化」というプロセスが論じられる場合があります。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念ですが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられることがあります。攻撃者から与えられる恐怖の体験に対し、限界を超え、対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥ります。そして、攻撃者の意図や行動を読み取って、それを自分の中に取り入れ、同一化することによって、攻撃者を外部にいる怖いものでなくす、というわけです。
この「攻撃者との同一化」という考えは、フロイトの時代に彼の親友でもあった分析家サンドール・フェレンツィが1933年に提唱したものですが(Ferenczi,1933)、それ以来トラウマや解離の世界では広く知られるようになっています。この概念は、一般にはフロイトの末娘であり分析家だったアンナ・フロイト(1936) が提出したと理解されることが多いのです。彼女の「自我と防衛機制」(AFreud1936)に防衛の機制一つとして記載されている同概念は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。(p. 113).」と説明されています。しかしこれはかなり誤解を招き、そもそもフェレンツィのオリジナルの考えとは大きく異なったものです(Frankel, 2002)。フェレンツィは「子供が攻撃者になり替わる」とは言っていないのです。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして攻撃者に心を乗っ取られてしまうことなのです。
 フェレンツィ がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」を少し追ってみよう。
 「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(p.144-145)
このようにトラウマの犠牲になった子供はむしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化します。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになるのです。フェレンツィはこの機制を特に解離の病理に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この「攻撃者との同一化」が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もあります(岡野、2015
たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれているときの子供を考えましょう。彼が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これがフェレンツィのいう「攻撃者との同一化」なのです。
このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象です。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではありませんが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのプロセスが生じる可能性があります。

ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えましょう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っています。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは私の父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識は当然あります。ところがこのプロセスでは、同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになります。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのです。自分が他人に成り代わって自分を叱る? いったいどのようにしてでしょう? 何か頭がこんがらがってくるような状況ですね。この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのです。
この同一化がいかに奇妙な事かを、もっと普通の同一化のケースと比較しながら考えましょう。赤ちゃんが母親に同一化をするとします。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にです。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうでしょう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となります。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じます。その際は自分は母親にとっての対象(つまり相手)の位置に留まらなくてはなりません。これが「~される」という体験です。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることです。このように他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分は普通は一時的にではあれ相手との同一化を保留するのでしょう。つまり受動モードにとどまるわけですが、これにはそれなりの意味があります。試しに自分で頭を撫でてみてください。全然気持ちよくないでしょう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうです。だから自分で自分を抱きしめても少しも気持ちがよくないわけです。ただし誰かに侵害された、という感じもしないわけですが。もちろん自慰行為などの例外もあります。
ところがある特殊な条件のもとで心の中にいわばバーチャルな意識や能動体が形成され、その部分に何かをされると、こころは「受動モードにとどまる」という状態になります。つまりそれが別人格の形成であり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもあります。実に不思議な現象ですが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様な状態と考えられます。そしておそらくはこの攻撃者との同一化のプロセスで生まれた人格が黒幕人格の原型と考えられるのです。
この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもあります。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えましょう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ています。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようです。なぜこのようなことが実際に可能かはわかりませんが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようです。実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶しています。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではありませんし、また誰かから攻撃された場合には限りません。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいます。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるでしょうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるでしょう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るでしょう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになります。
この心のコピー機能は実に不思議と言わざるを得ないのですが、ひとつそれが生じている明らかな例と思われるのが幼少時の母語の習得です。英語を授業で学ぶ経験を皆さんがお持ちと思いますが、外国語のアクセントを身に付けることは、意図的な学習としては極めて難しいことです。しかし幼少時に母語についてそれを皆が行っていることを考えると、それが意図的な学習をはるかに超えた、というよりはそれとは全く異質の出来事であることがお分かりでしょう。何しろ学ぼうとする努力をしているとは到底思えない赤ちゃんが、23歳で言葉を話すときには母国語のアクセント(と言っても発音自体はまだ不鮮明ですが)を完璧に身に付けるのですから。それは母国語と似ている、というレベルを超え、そのままの形でコピーされるといったニュアンスがあります。つまり声帯と口腔の舌や頬の筋肉をどのようなタイミングでどのように組み合わせるかを、母親の声を聞くことを通してそのまま獲得するわけですが、それは母親の声帯と口腔の筋肉のセットにおきていることが、子供の声帯と口腔の筋肉のセットにそのまま移し変えられるという現象としか考えられません。まさにコンピューターのソフトがインストールされるのと似た事が起きるわけです。これはこの現象が生じない場合に模倣と反復練習によりその能力を獲得する際の不十分さと比較すると、以下にこのプロセスが完璧に生じるかが分かります。母国語の場合、しかもそれを多くの場合には10歳以前に身に付ける際にはこの「丸ごとコピー」が生じます。
もちろんこれと攻撃者の同一化という出来事が同じプロセスで生じるという証拠はありませんが、言語の獲得に関してこのような能力を人間が持っているということは、同様のことが人格がコピーされるという際にもおきうることを我々に想像させるのです。
ちなみにこのような不思議な同一化の現象は、解離性障害の患者さん以外にもみられることがあります。その例として、憑依という現象を考えましょう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象です。日本では古くから狐に憑くという現象が知られてきました。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられますが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるでしょう。しかし実際に憑依現象が生じて、当人はその間のことを全く覚えていないという事も多く生じ、これは事実上解離状態における別人格の生成という事と同じことと考えられます。現在では憑依現象は、DSM-5 (2013) などでは解離性同一性障害の一タイプとして分類されていますが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴とされるのです。

「攻撃者との同一化」の脳内プロセス

攻撃者との同一化についての脳内プロセスを図を使って説明してみましょう。その前に前提として理解していただきたいのは、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しているということです。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。そして実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば」「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。その様子をこの図1で表しています。左側は子供の脳を表し、そこに子供の心のネットワークの塊が青いマルで描かれています。そしてご覧のとおり、子供の脳には、子供の心の外側に広いスペースがあり、そこに子供の心のネットワーク以外のものを宿す余裕があることが示されています。そして右側には攻撃者のネットワークが赤いイガイガの図で描かれています。そしてその中には被害者(青で示してある)のイメージがあります。

図1[省略]

もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、マネをしている、と言うレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、と言うのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません。ともかくそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(2)としてあらわされます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図2に示したように、攻撃者の方はIWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージはIWA2として入り込みます。
2[省略]
以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになります。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性をはらんでいます。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手がカッターナイフで切りつける、という現象が起きたりします。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけです。
特にここで興味深いのは、主人格が知らないうちに、心のどこかでIWAの1と2が継続的に関係を持っているという可能性です。この絵で両者の間に矢印が描かれていますが、これは主人格を介したものではありません。ここは空想のレベルにとどまるのですが、両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるならば、この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考えます。
ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性があります。その意味では以下に黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるでしょう。
   
以上黒幕人格が脳で出来上がるプロセスについて、少し詳しく解説をしてみました。

Freud, A. (1936) The Ego and the Mechanisms of Defense, International Universities Press.(アンナ・フロイト著作集 2, 岩崎学術出版社、1998) 
Frankel , J (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
Ferenczi, S. (1933/1949). Confusion of tongues between the adult and the child. International Journal of Psychoanalysis, 30, 225-230.
 (フェレンツィ「おとなと子供の間の言葉の混乱」(「精神分析への最後の貢献フェレンツィ後期著作集 森茂起ほか訳 岩崎学術出版社、2007年 に所収」。