AIに「感情」はなくてもいいのか?
さて、今度は精神療法の会話以外の部分の話だ。精神療法家が行っている会話や知的なコミュニケーション以外の要素を考えてみよう。そしてこれがAIにより代替が可能かという問題だ。これに関していくつかの事例をもとに考える。(私はAIではないので具体的な体験からしか考えが進まない。) 昔あるクライエントさんがこんな話をしてくれた。
ウチのワンちゃんは私のことをみんな分かってくれる。別居中の夫がいるが、彼よりはるかに私のことを理解してくれるのだ。普段は家に帰ると玄関に走ってきて、私に抱き着いてペロペロなめてくれる。でも私が落ち込んでいる時はそれも分かってくれているようで、心配そうに私を見上げる。とにかくワンちゃんがいることで、私は一人暮らしでも平気だ。もう家族の一人、というよりそれ以上の存在だ・・・・。
ワンちゃんは犬だから、会話は出来ない。しかし感情を持っていて、人間と関わってくれている。このクライエントさんにとって、ワンちゃんは何かの形で心の支えになっているようだ。(少なくともご主人よりは?…) そこで問うてみる。このワンちゃんは、言語的なコミュニケーションをのぞいた部分で精神療法をしているのだろうか。おそらくそうであろう、というのが私の立場だ。このワンちゃんは、精神療法のある本質的な部分を担っていると言えよう。それは心を持っていて、そして自分に愛情を向ける存在となるということだ。そしてここが大事なのだが、その存在は言葉を交わし合う必然性は必ずしもないばかりか、言葉がかえって邪魔になる場合もあるのである。
しかし相手が実際に感情を持つことが絶対的に必要だろうか? 次のような例もある。どこかでこんな話を読んだ。
「彼女」は私の帰りをどんなに遅くなっても待ってくれている。そして私の話をどんなに長時間でも、飽きることなく聞いてくれる。彼女はいつも変わることなく美しい笑顔を浮かべていてくれる。私は彼女をお墓の中にも連れて行きたい…。」
実はこの人の言う彼女はいわゆるラブドール、昔でいうダッチワイフ、精巧な風船人形である。「彼女」はいつでも目をパッチリあけて微笑んでくれている。夜が更けても眠くなって横になることなどあり得ない。いつでもご主人様を受け入れてくれる。そして彼はそこに心を投影する。すると彼女が、生きた彼女がそこに登場するのだ。ましてやラブドールを着たAI,マツコロイドのようなロボットなら効果は抜群ではないか。そう、特定の人にとってはAIは良きパートナーになるという結論はある意味ではすでに出ているとも言えそうだ。この小論の冒頭に示した「たまごっちもどき」もそうである。人はそこに心を投影して、まるで血の通ったペットのような扱いをするのである。
もちろんAIが実際に感情を持つ可能性は今のところ極めて低いであろう。私が知る限り、これまでに感情を持ったAIなど作られていない。という事はAIは本来はワンちゃんどころか、おそらくCエレガンスにも及ばないだろう。もっともCエレガンスのレベルですでに快、不快を想定するのは私だけかもしれないが(岡野、2017)。ではAIが発達して将来感情を持つ可能性はあるだろうか? これについては予測不可能、という事にしておこう。というのはこれからAIにどのようなブレイクスルーが生じるかはわからないからだ。しかし少なくとも今の段階では、AIが快、不快などの情動を体験する可能性はゼロに近い。神経回路のネットワークだけでは感情は析出されてこないからだ。ということはAIが本当の感情を持てない以上、問題はAIがどこまで感情を持った振りをするか、という点にかかってくる。しかしこの問題なら、すでにAIがどこまで会話をする能力を発展させるかという議論と同じ路線という事になる。しかも感情を持っているように振る舞うという課題に関しては、おそらく「わかって会話をしているように装う」ことよりもはるかに容易にクリアーするはずだ。それこそ常に全く変化しない微笑みをするただの人形でさえ、一部の人間には感情を持っているように見えるくらいだからだ。そしてそこにクライエントに応じたカスタマイズが可能なのだ。誕生日であることを職場のだれにも気づかれずに落ち込んで帰宅した人が「今日はお仕事お疲れさま、そしてお誕生日おめでとう」と、カレンダー機能の付いたAIに声をかけてもらえると、思わずそのロボットに人間の姿をを投影して抱き上げたくなっても不思議はない。そしてこの投影を起こさせやすくするという技術を、AIは例の「誤差逆伝搬」により急速に身に着けることができるだろう。しかしこのためにはあまり凝ったプログラムは必要ないかもしれない。そしてそれは人間が持つ、ほっておいても無生物に心を投影するという性質にも支えられているのだ。かつて安永浩先生がお書きになっていたことだが(精神の幾何学.安永浩著.岩波書店.1987年)、心の原始的な在り方においては、「原投影」という規制が生じ、モノは最初から、心を持ったものとして体験されるのである。アニミズムは高度な知性を特に必要としていないのだ。
このように考えることで、私は「AIは精神療法が可能か?」という難しい問いに関して、AIは感情を持つことが出来るのか、という本来なら難問中の難問に対する回答を用意しなくてもいいことになったのである。理想的なセラピストなら、言葉を介して、感情を、しかも暖かい感情を持っている必要があるだろう。しかし拙い言葉を話すことで馬脚があらわになるくらいなら、むしろ寡黙で感情を持っているかのようなAIの方がよほど精神療法家としての機能を発揮するかもしれない。もちろんおかしな話であることは承知である。本当は話を分かる能力のない精神療法家が、情緒的には豊かだが言葉の通じない外国人のふりをして、カウンセリングをすればいいではないか、と言っているようなものだからだ。でも先に紹介したワンちゃんに本当に気持ちをわかってもらえているという方のことを思い出してほしい。彼女はおそらくワンちゃんに自分のおかれた状況を理解してほしいとは考えないであろう。ただ悲しさや辛さや喜びを共有してほしいと思っているはずだ。そして人間の投影の力をもってすれば(といってもその程度は人それぞれだが)かなり心を持った実際の生き物とは程遠いモノに対しても、人は分かってもらえた、と感じる可能性があるのである。
ここで石蔵文信(いしくら・ふみのぶ)氏の議論を発見した。石蔵文信(2011)『夫源病- こんなアタシに誰がした -』(大阪大学出版会)という本だ。しかし彼の議論は最近注目されているが、読む人によってはとんでもないないようだ。私なりにサマリーをすると、要するに男性が自分のことばかり考えていて妻の話を聞けないことが妻の精神的なストレスとなっているという。ここまではいい。しかしそのためには聞いたふりをすればいい、そしてそのための「技術」として妻の話を鸚鵡返しし、時々「それは大変だったね」とか「ごくろうさん。ありがとう」などと付け加えれば、さらに効果的であるという。なんと相手を馬鹿にした議論だろう。でも私はどのような議論にも真実が含まれていると思う。それは人は相手が自分の言葉を繰り返すということで、分かってもらっているという「錯覚」を持ちやすいという事実だ。そしてこれは一時的にではあれ相手の気持ちをつかむ上で重要なかかわりなのである。そこで・・・・・
皆さんの想像通りである。AIに相手の話の内容をごく短くまとめて伝えるようなソフトを与えるのだ。これは相手の話を理解して応答するという高度の技術を持たなくていい。そこで仮想上の夫のAIロボット。ネーミングはもう決まったようなものだろう。「オットボット」。あるいは「オットロイド」。
こーぺい君でもいい?
皆さんは皇帝ペンギンならぬ「肯定ペンギンのあかちゃん」の話をご存知だろう。私はこれを聞いた時、ロボットのことかと思っていた。AIを積んだ小さなロボットが、日常のちょっとしたことを褒めてくれる。
ところがこれはLINEスタンプだという。「ちゃんと起きてえらい!」「生きててえらい・・・!」といった、誰もが当たり前だと思っていることをあえて褒めてくれるという。