2019年5月17日金曜日

黒幕さんの形成過程 ②


この同一化のプロセスは、実はきわめて不思議な現象だという事がわかるでしょう。一方では私たちは「自分は自分だ」という感覚を持っています。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは父親であり、自分とは違う人間だという認識は当然あるはずです。ところが同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになります。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのです。何か頭がこんがらがってくるような、この通常ならあり得ない同一化が生じるのが解離です。
この同一化がいかに奇妙な事かを考えるためにもっと普通の同一化のケースを考えましょう。赤ちゃんが母親に同一化をするとします。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も何となく痛みを感じる、という具合にです。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうでしょう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となります。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じます。その際は自分は対象の位置に留まらなくてはなりません。つまり「~される」という体験です。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、「じっとしている」ことで、つまり受動的に体験されることです。おそらく他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分が一時的に同一化を保留するのでしょう。そして受動モードにとどまることにはそれなりの意味があります。試しに自分で自分の頭を撫でてみてください。全然気持ちよくないでしょう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうです。だから自分で自分を抱きしめても少しも感激しないわけです。ただし侵害された、という感じもしないわけですが。もちろん自慰行為などの例外もあります。
ところがある特殊な事情では、このような心の働きが機能しなくなり、心はいわばバーチャルな意識や能動体 をつくることになります。それが別人格であり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもあります。実に不思議な現象ですが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様なことになります。そしてそれが私の中の父親の人格の振る舞いになります。
その父親の視点からはおそらく私が外から見えています。実際にはいわば体外離脱体験のような、上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようです。なぜこのようなことが実際に可能かはわかりませんが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようです。いわば自分の中に自分の片割れができたような状態で、二人が相談しながら物事を体験しているという状態にもなるでしょうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるでしょう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るでしょう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになります。