本を創ることと精神分析
私はこの件については、もういう事は言いつくしたつもりである。ただし私たちに与えられたテーマは、「本を書くこと」について論じるということである。そこで臨床について論文にすること、というテーマからは離れ、この本を書く、創るというテーマについてもっぱら論じたい。まず私が思うのは、人はどうして本を書かないのだろう、という事だ。これは私が一番わからないことである。本を書くというほど自分の想像力が発揮され、しかもかかる費用も少なく、他人に迷惑をかけることなくできる自己表現はないのだ。別の言い方をすると、みんなが私みたいに本を書きたいと思ったらどうしよう、と心配になるのだ。幸いなことに今の世の中は、本を書きたい人の何分の一しか出版の機会がない、と言うわけではない。それなりのモティベーションを持っていればおそらくいつかは実現するだろう。それに今はなんと言ったって、アマゾンで勝手にE書籍を自費出版出来る時代だ。それもタダでである。ともかくも本を書くことには達成感が伴う、そしてリスクを伴わない自己表現の手段なのだ。
私が常に思うのは、人は自己表現を求める動物であるということだ。そしてもちろん表現されたものを他人に評価されたいという願望を持つ。そして期待した評価が受けられなかった際には大きな傷付きを体験する。健常といわれる私達の精神生活のかなり多くはこの自己表現と他者からの評価をめぐる活動で占められる。私が数多くの理論の中でも自己愛の視点を重んじるのはこのためだ。そして最近これほど多くの人がSNSに嵌まっていることも十分理解可能なのである。何気ない風景を写メで撮って簡単なコメントをつけてアップしたところ、「いいね」がたくさん付いてきた。それからハマってしまったというような話をよく聞く。しかも匿名でそれを行うことができるので、自分を必要以上にさらすことがない。
この例は被写体を切り取るという作業という自己表現だが、実はあらゆる事柄が自己表現につながる可能性がある。そして何をその手段に選ぶかについては人により全く違う。たとえば目の前にある食材を見て閃いて、「あれをつくろう!」と思っていそいそとキッチンに立つという人もいるだろう。しかし私にはそのような能力は全くない。食材越しに出来上がった料理を想像する力がないからだ。だからとても興味深いはずの料理の話も、私にとってはあまり意味を持たない。それと同様に論文を書くこと、本を書くことに本質的に向かず、その面白さを想像できない人には、今日の私の話はほとんど意味を持たないであろう。そこでこの問題に多少なりとも興味を持っていたり、書く必要に迫られていたりと言う人を対象にお話しすることにする。そして本を書くことの面白さを売り込むのが私の役割だと考える。しかしそれで皆さんが本を書きだすと、ますます私の本が売れなくなってしまうので、そこは気を付けてお話をしたいと思う。
まず本には二種類あることをお話したい。書き下ろしnewly-written book と論文集 anthology である。これらはまったくの別物であると言うことを理解するべきだろう。そして一般人が本を書くと言うことに一番近い体験をするのは、博士論文を書くことと言えると思う。そこで私にとっては博士論文を書くという事が学術書を上梓するという事の基本形としてあると考える。逆に言えば博士論文を書き上げるモティベーションと方法論が備わっていない場合には、技術的に本の著述は難しいという事だ。しかしもちろんそれには例外がある。あるひとつながりの主張、体験を一気に書き下ろす力を最初から持っている人もいる。だからそのような特殊能力を持つ人のことはここではあまり考えないことにする。第一そのような人は、今日の私たちの話を聞かなくても、自然と本を書くからである。だから、いかに本を書くか、とは、博論をいかに書くかという問題に置き換えることができる。最近ある大学では、博論をそのまま著作にしてしまおうという画期的なやり方が定着しつつあるが、それは私の主張のかなり具体的な表れである。