生き残ることと他者性の成立
確かとても幼い頃のことだったと思うが、私は庭先である小動物をいたぶったことがある。おそらくそれは覚えている限りだだ一度体験のだったが(あるいはそう願いたいが)、そこから何かを確実に学んだと思う。私が驚いたのは、もう虫の息だと思っていたその小動物がいきなり、それも私の方向に飛び跳ねてきたことだった。私はその指先に載る程度の小動物にいきなり逆襲をされたと感じ、心底震え上がったのを覚えている。私がそれを苛めた分だけ、それは私に怒りを向けていると感じた。私は投影同一化という概念を聞くとよくこのエピソードを思い出す。私がその小動物に向けた攻撃性はそのままの力で私に跳ね返ってきたと思えたのである。
ただこのエピソードからもう一つ連想するのが、対象の「生き残ることsurvival 」というウィニコットの概念である。実に不思議なことだが、私はその小動物が私に飛びかかってきたことで、自分はその小動物にとんでもないことをしてしまったのだと感じたのかもしれない。それにより私はそれまでは単なるモノとしか思えていなかったその小動物を、自分と同じように傷みを持つ存在として感じることが出来るようになったのだろう。ただしウィニコット的に言えば、「生き残ること」とはこの類のことではない。仕返しをしないこと、というのが彼の考えだ。でもその真意はどこにあったのだろう? もう何度も読んでいる1969年の「対象の使用」の論文を読み直してみる。(p711~719)
実はこの論文で、不思議なことにウィニコットはなんの断りもなく、対象を使用することthe
use of self という言い方を論文の最初からしている。対象とは精神分析では人を意味する。だから対象を使用する、という言い方は何か利用するようで、モノ扱いをしているという印象を与えるが、ウィニコットによれば、それは自分の外側に存在するものとして扱うことである。それを「対象と関係する」という言い方との対比で用いるのだから、その言葉についての注釈があってしかるべきなのに、この論文はあまりにもそっけない。それがこの概念があまり一般に受け入れられていない一つの理由なのだろう。この論文では対象を使用することは遊ぶキャパシティと関係する、ということを言ったり、解釈をすることを待たなかったために多くの治療的な機会を逃した、ということを言ったりして、論旨を正確に追うことが出来ない「ウィニコット節」が最初から聞かれる。
p.712でウィニコットはこんなことを言う。まず対象を使用することには、まず「対象と関係すること」が前提となる。そして精神分析は対象と関係することを扱うのに留まっていればこんな簡単なことはないし、そもそも環境については除外したがってきたという歴史がある。でも対象を使用する時は、投影の機制を超えた、対象の性質そのもの、物自 thing in itself を扱うという逃げ場のない事態なのだ、と言う。ここもウィニコットらしい。でもそもそもこれがどうして起きるのか、それが問題であるという。
そこで問題となるのは移行対象のパラドックだ、とウィニコットは言う。そのパラドックスとは「対象は赤ん坊により創造されるが、それは備給された対象となるためにそこで待っていたのだ
The baby creates the object but the object was there waiting
to be created and to become a cathected object」ということだという。そしてそのためには赤ちゃんにこう聞いてはいけないのだという。「それを見つけたの、それとも創ったの?」そして、ウィニコットは言う。「私はこの対象を使用する、ということについての提言をいよいよするが、勿体付けているのはそれがあまりにもシンプルで、それを言えば終わってしまうからだ」。