2019年5月28日火曜日

書くことと精神分析 2

ここから急に、です,ます調になる。


博論を書くという事

もちろん本を書きたい、という夢を持つことは悪いことではありません。でもそれは高い山の頂上にいきなり立ちたい、と望むようなものです。しかしその前に標高の低い山を攻略して体力と自信をつける必要があります。そしてその標高の低い山、とは原著論文や査読付きの研究論文を書くことです。そしてその低い山に登れる体力と経験がない場合には、トレーニングとしての「査読なし論文」や症例報告などがあります。そこで結局は単著の論文を書くことに話を戻さなくてはなりませんが、やがて著作に繋がっていくような単著論文を書くということについてお話しします。
まず当たり前の話ですが、ひとつのまとまった論文を書くことが出来ずに本を書くことは出来ません。またたとえ論文がかけても単発で終わってしまっては著書には至らないでしょう。そこで著作につながる論文とは、書いていくうちに自然と関係するテーマを生み出すような論文である必要があります。ある A というテーマについて論じているうちに、関連するBというテーマが浮かび上がり、今度はそれについ論じているうちに C や D というテーマが浮かび上がるような論文。そしてその全体がAというテーマにまとまることが分かったとしたら、もう というタイトルの著作が出来上がるのが見えています。そして B や C を書いている際に、「そうか、自分はAという著作のいくつかの章を書いているんだ」、という感覚をつかむことが出来たら、幻の著作Aの準備は着々と整っていることになります。ただしもちろん単発の論文を書き始める時にはそんなことを考える余裕はありません。そしてすべての論文をそれぞれ著作に持っていくことは出来ません。ですからたまたまある論文を書いていて、それが著作に発展する場合は、それを書きながらひとつの鉱脈に出会ったと感じられることが必要です。もし鉱脈に出会わなければその論文は単著のままで終わるでしょう。
鉱脈を探り当てた論文の場合、個々の論文では触れたくてもその余裕がなかったというテーマがそこここにあるはずです。この論文はここを掘ったが、あそこの尾根までつながっているかもしれない、とかここまで掘り進んで体力が尽きたけれど、次回はその先まで掘り進んでみよう、という事になります。つまり続編を書きたくなる、あるいはその論文で続編を予告するという事になるでしょう。おそらくそのような体験があり、初めて人は著書を書きたくなるのだと思います。スターウォーズだって最初の映画は、これが全体がつながるはずとは予想していなかったはずです。
とここまで書いて少し気になって調べたら、とんでもないことが分かりました。ジョージルーカス監督はそれこそすべての章の構想をまとめ上げて、全部で9本の映画を撮ることを最初から企てていたそうです。しかし時系列的に1から9に並べるよりは、一番絵になる第4本目を最初に作り、徐々に他の映画を作って行ったのです。そして映画の内容に当時の CG の技術が追い付いていない章は後で発表するという事まで考えたそうです。つまり彼こそが、「いきなり書き下ろしで本がかける天才」の例だったわけです。
以下、WIKI様のコピペを少しいたします。
1974年までにルーカスは草案を下敷きにして脚本を書き上げ(この時点でシスデス・スター、アナキン・スターキラー(アナキン・スカイウォーカー)などの要素が加えられた)、物語が全9部作になると主張して20世紀フォックスと交渉し、監督として5万ドル、脚本家として5万ドル、プロデュース費用として5万ドルを受け取った。製作を確実なものとしたルーカスは、監督としての報酬を抑える代わりに、マーチャンダイジングの権利は全てルーカスフィルムが持つと認めさせ(トム・ポロック英語版)は、「交渉において、我々は20世紀フォックスのビル・ラーマンとの間で契約を立案しました。我々はジョージが権利を所有することで合意しました」と述べている)、自らの管理でキャラクターやメカのグッズを製造・発売し、巨額の富を得た。この利益を基に、後の「プリクエル・トリロジー」はルーカスフィルムの自己資金で製作されている。
映画が時系列では4番目にあたる『新たなる希望』から制作されたのは、まず1作目が商業的に成果を収めねばシリーズ化が望めず、その意味で一番「冒険活劇」としての完成度が高かった『新たなる希望』を最初に世に出すことが得策だと判断されたためである。また『エピソード123』の時代は、全銀河の首都である大都市惑星コルサントの描写や、銀河共和国独立星系連合の間で勃発した大規模戦争であるクローン大戦の描写が必須にも関わらず、当時の映像技術と予算では映画化が不可能だったのも理由にある。
性格はかなりシャイ。「演技指導はスタッフに耳打ちして役者に伝えさせている」とも言っているが、しっかりと自身の言葉で演技指導している。ルーカスの会社である、ILMにオカは勤めているが、その社則には『ルーカス氏にサインを求めたらクビ』、『ルーカス氏と5秒以上目を合わせたら石になれ』などの変な規則があるというが、前述のようにかなり誇張されている。スタッフ会議や演技指導の際には、皆がルーカスに目を合わせている。但し、キャリー・フィッシャーユアン・マクレガーによると、演技指導の際に具体的な説明があまり無かったといい、「イメージははっきりしているが上手く説明出来ない」と、ルーカス自身がマクレガーに話していたという。
  
ジョージルーカスの話にそれましたが、博論の書き方という問題に戻ります。
ある単著論文を書いているうちに、それがたくさんのスピンオフを生みそうな予感がしたら、それは博論や著書に化ける可能性があるのです。ここからは一つの例を挙げて論じましょう。私自身が体験した例に脚色を加えたものです。