2018年11月24日土曜日

自己愛の病理と治療 推敲 1


手を入れた割にはあまり変わっていないな。

 自己愛についての論文や著述を発表していると、臨床に携わっているかたがたから、しばしばたずねられる質問がある。
「自己愛の患者さんは治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
私はそのような時、「ドロップアウトをしてしまうのが患者さんの自己愛的な部分なのでしょうね。」と応答することが多いが、実はこの答えは決して十分とはいえない。「彼らがドロップアウトしないためにはどうしたらいいのか?」あるいは「彼らがドロップアウトをしないように治療者が配慮することは果たして治療的なのか?」という問いは永遠に続くであろう。そしてそのことについて考える前提として、その治療者がどの種類の自己愛の病理を持った患者さんを扱っているかによって異なってくる。本特集の「関係精神分析と自己愛」でも述べたが、Kernberg 的な、DSMの自己愛パーソナリティ障害における病理と、Kohut的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。そこで本稿ではわかりやすく前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現させていただき、議論を進めよう。
まずタイプ1については、その定義の上からも、自分の問題を内省する用意はあまりないと考えていいだろう。自分に過剰な自信を持ち、人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める必要性をほとんど感じないであろう。ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかないであろう。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、自己愛的な振る舞いは一時的に陰をひそめるだろう。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、罪を犯し、あるいは病を得て表舞台から姿を消すは決して少なくない。彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。彼らの多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を修正していくだろう。ただしその中には心理療法家のもとを訪れ、自らの心のうちを話したくなる人もいるかもしれない。
こうして療法家のもとを訪れたタイプ1の来談者にはおよそ二種類あるだろう。彼らの一部は傷ついた自己愛を癒してもらい、勇気付けられることによりまた人生を歩み始めることができるであろう。彼らが自分自身を変えるというよりは、彼らがいかに不運で、誤解を受け、人に陥れられてしまったか、つまり彼らがいかに外的な原因により翻弄されて足を踏み外してしまったかがテーマになるかもしれない。彼らは心理療法により、あるいはその他の様々な要因により問題が解決するにつれてかつての自信を取り戻して再びもとの人生を歩み始めるであろうし、それは心理療法をもはや必要としなくなるということを意味するのであろう。
タイプ1の来談者のもう一つのタイプは、自らを省み、失敗の原因を自分自身に求めることで人生を立て直していくかもしれない。その中でおそらくある種の洞察を得ていくだろう。それはおそらく「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、この様な気持ちをさせていた」「相手の気持ちを思いやることが大切だ」という形をとるであろう。そしてそれを獲得することは、心理療法的なかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、相手の気持ちになり、また自分が称賛を得ることを第一に考えることをやめ、人を評価し、人に力を与えることを重視するかもしれない。これらを「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察と仮に呼ぼう。
さてここで考えてみよう。タイプ1の人々は「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察を本当に得られるのだろうか? あるいは一歩進んで、それは「洞察」なのだろうか? 言い直せば、タイプ1の来談者の中に、果たしてこの後者の種類の来談者はどれほど存在するのだろうか? 
「そもそも相手の気持ちを思いやれない」という場合には二つの可能性がある。一つはその体験を自らが持っていないために想像力が働かない場合。もう一つはそもそも相手の立場を思いやれる想像力が欠如している場合である。もちろんタイプ1の場合には自分の自己愛的な満足、すなわち称賛や注目を浴びることへの強い願望があるために、思いやる力が十分に発揮できないという事情があろう。そしておそらく治療的な介入や自己省察により変化できる余地があるのは、前者の方だけだろう。なぜなら後者はその人の生来持っている感受性や共感性の問題が大きく関与しているであろうからだ。
ある高名な医師が述懐しているのを読んだことがある。
「自分は老境になるまで入院を必要とするような身体疾患にかかったことがなかった。しかし80台の後半になってようやくそれを体験することで、初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。それから患者に会う時の姿勢も変わったように思うのだ。」
かなり専制君主的な振る舞いで知られていたこの医師は、いわば弱い立場にある人たちに身を置くことで、初めて上記の意味での洞察を深めることが出来たのであろうし、そこに変化の余地があったということになろう。ただしもちろんこの医師が感じていたであろう自分自身の変化が、どの程度周囲に伝わっていたかは別問題であろうが。
さてもともと想像力に欠けたタイプ1が現れた場合はどうだろう。彼はおそらく自己愛の傷つきによる抑うつ状態を体験し、心身共に脆弱な状態で治療者のもとに来る。治療者は本人の持つ嘆きや恨みや後悔を聞き、それを受容し、勇気づけるかもしれない。そうして患者の自己愛的な傷付きは少しずつ癒えていくかもしれない。ただそこには上述の意味での反省はほとんど伴わないことになる。たとえば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた患者のことを考える。「自分が相手の立場に立つことがなかったから、こんなことになった」という思考は、起きたとしても偶然そうなっただけ、相手の曲解として片づけられる可能性がある。自分に落ち度があったからこのような目にあったという反省は、それ自体が痛みを伴うために退けられるであろう。
こうしてタイプ1的な来談者は傷が癒えれば治療を去っていく可能性が十分あるし、その際は治療的なかかわりに対する感謝や恩義の念はあまり伴わないことになるだろう。患者は気分が直ってまた仕事が軌道に乗ったら突然ドロップアウトして、それを何とも思わないかもしれない。もちろん治療者はそれを受け入れなくてはならない。