自己愛についての論文や著述を発表していると、しばしばたずねられる質問がある。
「自己愛の患者さんは治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
この件についての私の見解は、どの種類の自己愛の病理を扱っているかによって異なってくる。本特集の「関係精神分析と自己愛」でも述べたが、Kernberg 的な、DSMの自己愛パーソナリティ障害における病理と、Kohut 的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。ここでわかりやすく前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現させていただこう。
まずタイプ1については、その定義の上からも、自分の問題を自分で考える用意はないと考えていいだろう。自分に過剰な自信を持ち、人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める動機を持つことはほとんどないと言っていいかもしれない。ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかないであろう。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、自己愛的な振る舞いは一時的に陰をひそめ、抑うつ的になるかもしれない。その際は心理療法を自ら必要と感じて療法家のもとを訪れる可能性がある。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、犯罪を犯し、あるいは病を得て姿を見せなくなることを私たちは知っている。彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。ただその多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を変えていく。
もちろんここで彼らが失意の体験をすることが彼らが変わる前提になる書き方をしていることは問題かもしれない。彼らは自己愛的な振る舞いをし、社会で成功を収める中で、徐々に考えを変えていく可能性もある。ただしその場合も以下に述べる議論にある程度当てはまるために、ここではそのような場合は特に論じないでおこう。
ここで失意の彼らが自らの生き方や考え方を変えるとしたら、彼らはどのように変わることによってであろうか? おそらく「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、この様な気持ちをさせていた」「相手の気持ちを思いやることが大切だ」と気が付くのだろう。そしてそれは心理療法的なかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、相手の気持ちになり、また自分が称賛を得ることを第一に考えることをやめ、人を評価し、人に力を与えることを重視するかもしれない。これらを「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察と仮に呼ぼう。
そしてここで考えてみよう。タイプ1の人々は「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察をどうやって得られるのだろうか? あるいは一歩進んで、それは「洞察」なのだろうか?
「そもそも相手の気持ちを思いやれない」という場合には二つの可能性がある。一つはその体験を自らが持っていないために想像力が働かない場合。もう一つはそもそも相手の立場を思いやれる想像力が欠如している場合。もちろんタイプ1の場合には自分の自己愛的な満足、すなわち称賛や注目を浴びることへの強い願望があるために、思いやる力が十分に発揮できないという事情があろう。そしておそらく治療的な介入や自己省察により変化できる余地があるのは、前者の方だけだろう。なぜなら後者はその人の生来持っている感受性や共感性の問題が大きく関与しているであろうからだ。
ある高名な医師が述懐しているのを読んだことがある。
「自分は老境になるまで入院を必要とするまでの身体疾患にかかったことがなかった。しかしそれを体験することで初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。それから患者に会う時の姿勢が変わったように思う。」
おそらくこの様な殊勝な医師の場合、そこには彼がいわば弱者の立場に身を置くことでそのような理解を深めることが出来たのであろうし、そこに治療者の役割は補助的ということになるかもしれない。
さてもともと想像力に欠けたタイプ1が現れた場合はどうだろう。彼はおそらく自己愛の傷つきによる抑うつ状態を体験し、心身共に脆弱な状態で治療者のもとに来る。治療者は本人の持つ嘆きや恨みや後悔を聞き、それを受容し、勇気づけるかもしれない。そうして患者の自己愛的な傷付きは少しずつ癒えていくかもしれない。ただそこには上述の意味での反省はほとんど伴わないことになる。たとえば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた患者のことを考える。「自分が相手の立場に立つことがなかったから、こんなことになった」という思考は、起きたとしても偶然そうなっただけ、相手の曲解として片づけられる可能性がある。自分に落ち度があったからこのような目にあったという反省は、それ自体が痛みを伴うために退けられるであろう。
こうしてタイプ1的な来談者は傷が癒えれば治療を去っていく可能性が十分あるし、その際は治療的なかかわりに対する感謝や恩義の念はあまり伴わないことになるだろう。患者は気分が直ってまた仕事が軌道に乗ったら突然ドロップアウトして、それを何とも思わないかもしれない。もちろん治療者はそれを受け入れなくてはならない。