次にタイプ2の自己愛の病理について考えてみよう。このタイプのクライエントは自尊心が低く、おそらく養育環境において自らの自己愛を支え、育ててもらう機会を与えられず、そのために自分に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々が自己愛の障害を有することになる。タイプ1の患者さんとは異なり、人間関係を営むうえで生じてくる様々な問題について、過剰に自分の問題であると感じる傾向にあり、責任を感じる傾向にあろう。おそらく自らを省みることについては過剰なほどにそれを感じている可能性があるだろう。Kohut が考えたように、治療者が彼にとっての自己対象機能を果たす役割を通して、患者が自らにとっての自己対象機能を獲得していくうえで、治療者の役割は極めて大きいということになる。そしてその意味では治療関係は本人の精神的な健全さを保つためにも大きな役割を果たし、患者は治療関係を維持することに力を注ぐことになるだろう。その意味でタイプ2の患者さんがドロップアウトをする傾向は、タイプ1の患者さんに比べて極めて低いものと考えられる。
この様に考えた場合、二つのタイプによって患者の治療関係の用い方は全く異なることになる。しかしおそらく読者の皆さんの中には、次のようにお考えだろう。「同じ自己愛の病理と言っても、どうしてこれほど異なるのであろうか」「まったく別の病理を論じているのではないだろうか?」
この疑問はもっともであろう。すでに述べたように、タイプ1とタイプ2の臨床像は大きく異なり、正反対との印象さえ与えるだろう。そこでキーワードとして恥を用いてみよう。私は自己愛の問題を恥の観点から論じていたが、恥と自己愛とは表裏一体の関係にある。恥という概念を通して両者はつながっていると見ることが出来るのだ。するとタイプ1は、みずからを軽んじられて恥をかかされることにきわめて敏感になる。プライドが高く人にも丁重に扱われるべきだと思っているタイプ1の人は、低く見られた、軽んじられたと感じると一瞬恥を味わった後にそれを怒りに転化して相手にぶつけるだろう。それに比べてタイプ2の場合には、もともと恥ずべき存在として自分を見ているところがある。そして対人場面でその低いプライドがさらに低められることがあった場合には、さらに恥じ入り、相手を怒るどころかさらに引きこもってしまうであろう。
本来人は常に高いプライドを保っていることは出来ないものである。どんなに強がっているタイプ1にも、弱かった時の自分がどこかに眠っている。それを刺激されかかったときは全力でそれを跳ね返すために、恥を実際に感じるには至らない。たとえ感じてもそれは一瞬ということになる。逆にタイプ2はそれが常態化している。いずれにせよ恥の体験がその人の人生の主たるテーマである点で、たとえば相手から見捨てられないかという懸念が中心になっているBPD, いかに心の中のトラウマ記憶と格闘しているかという外傷性の障害とはその性質を根本的に異にするのである。
前者はその恥を体験させられるような可能性を全力で避けるために治療的な介入はその本質部分に迫ることが出来ない。それがむしろ後者に浸りつつ助けを模索するダイプ2の患者と性質を異にするのである。