2018年11月16日金曜日

ある対談の続き 1


以前に書いたものの修正版である

S先生:では対談を始めたいと思います。みなさん、活発にご意見を言っていただいて、どこへ向かうかわからないけれども、また戻ってくるような感じで、行ったり来たりしながら、活発に討論をお願いします。実はこのテーマはA先生が提案してくださったものですので、そのあたりのお気持ちをお話いただきたいと思います。

O先生:はい。これまでは「現代における解離の治療とは?」とかいう漠然としたテーマばっかりなので、好きなことをみんなが話しっぱなしで終わっていたのですが、今回ちょっとチャレンジングなテーマを選んでみました。それは「統合ってどうなんだろう?」というテーマです。ただしこれは私だけが思っていることかもしれません。「専門家は皆、解離性障害の最終目標は人格の統合ということを言うけれど、そんなに簡単なものではないはずだ」と私はいつも思ってきました。そこで他の専門家の方々はどう思っていらっしゃるのだろう、ということを確かめたかったのです。ですからオレはちょっと危ないテーマであり、専門家の先生方にバッシングされるかもしれないという危惧もあるのです。
私は精神分析学会に属しているんだけれども、たとえば精神分析学会の大会で解離をおおっぴらに扱うことはどちらかといえばタブーなわけです。治療者が別人格に話しかけるようなことは、普通はあり得ないことです。それは、やはり精神分析では心はひとつであるという大前提に立つからです。心とは一つしか存在しないというのはそもそもの前提なのです。それがいくつもあるんだとすると、心をどうやって理解していいかが分からなくなってしまうわけです。Dissociation、解離と反対の概念はassociation、つまり統合なわけです。解離とは本来は一つだったものが2つに、3つに分かれた状態だという認識が私たちの多くの中にあります。ただ私の個人的な体験だと、まず1人の人格がいて、その人格が耐えられなくなったときに、突然、忽然ともう一つの人格が表れるという感じがするのです。眠っていた人格が覚醒するといった感じです。だから我々の脳というのは、そういうものが覚醒するような素地を持っていて、皆さんの中の何人かは、そういうものが内部にいるものを感じ取っていて、でも DIDの場合には、ある時突然、生まれる、覚醒するというニュアンスが在ります。そうすると、それは分かれるというよりは新たに加わるというイメージがあるのです。その場合は回復のプロセスとは、新たに加わった人格が再び眠りにつく、冬眠状態に入るというプロセスがあってしかるべきだと思うのです。ここらへんのところをシンポジストの先生方はどうなのか という点に関心があります。
そしてもうひとつ言えば、“統合”という言い方に対して、クライエントさんはほとんどみんな怯えて、「自分は消されるんだ」というような他の人格の声が聞こえてきて、アポイントメントを取ったけれども、治療者のところに行かないということが起きがちです。すると私たちがまず、心理教育的なアプローチとして必要なのは「みなさん、統合といっても、あなた方の一部が消える、というような話ではありません。」ということを伝えることなんです。初診のときは最初に主人格と話しているときにも、他の人格が聞いている場合があるので、こうして最初から、“皆さんに対して”という言い方が必要になります。ただし同時に伝えるべきなのは、「皆さんの中で疲れたら、寝ていい、そういうことなんですよ」とも伝えるわけです。ということで、それが私のテーマとしてはどうか?と考えたひとつの動機ですけれども、こんなところでいかがでしょうか。

S先生:はい、私の今日の発表は、場所と主体ということで一点に集約される焦点としての自我というのよりも、丸く円を書くという方向に親和性を持つ自我を描いたつもりです。つまりいろいろな人格が共存していく場所、従来の場所ではない場所を創り出していくという、そういう動きを重視しているわけです。「消されてしまう」というのは、やっぱり人格があってのことなので、人格にある程度、表出させないといけないのです。その表出の仕方は人格が直接降臨してしゃべる、というのでもいいし、それ以外でもいいのです。ただ最後にはたぶん人格の形のままで寝ていくというのはあるだろうなと思うんですよね。だから、その意味での別れというのは必ずくるだろうし、それはもう自然に生じるプロセスに任せていくという姿勢をとりたいので、あえて、治療者側が強く、あたかもイリュージョンのような世界を作って、統合していくというのは、ちょっとどうかなという感じはします。