2018年11月21日水曜日

ある対談の続き 5

S先生:私はこれまでは、患者さんのマインドフルネス的な部分に訴え、本人にとって切り離されたものが舞い降りることに気づいてもらうということを、重視してきました。人格がせっかくこの場があるのに居場所がないと感じるのは、患者さんがいろんな自分を出せないからだと考えるわけです。そこでいろいろな自分を表現して、出していくと、それが自然に、この場所を通じて、まとめあげられるだろうなと思います。それも、ぎゅっぎゅっと結ぶんではなくて、緩やかに、というわけです。この統合というテーマはそれだけ難しく、こういう言い方をして逃げ切るんですけれどね。ここで君が自分を出せば出すほど、この場所という限定なんだけれども、ここに場所を作ることが出来るし、出さないと場所がなくなるんだよ、と。つまり、母親との関係が場所になるというのは、母親にいろいろな自分を出せる経験をすればするほどそうなるのだ、というのを最近ある患者さんから教えてもらいました。
 O先生:S先生のおっしゃる「解離の舞台」というのは、つまり治療者の心にあるということですね。
S先生:そうなんです。病気の症候の舞台もあるんだけれど、大事なのは、その症候の舞台ではなくて、本人、役者とその舞台の上の人と、その舞台があるわけですけど、観客っていうか、外部を持って来ないと、物語はリアルにならないかなと思うんです。だから、あんまり舞台の中に入ちゃうと、どこかが違うと思います。だから今日の症例検討については、僕は、多少舞台の中に入り込んでいて、いるんじゃないかなって思いました。そこから離れた他者というものは、あるいは外部というのは、どこにあるんだろうなと。もちろん、患者さんの世界の中に外部を探そうと思えば、当然出てくるだろうとは思うんですけれども、そういう外部というのをやっぱり開いていかないといけないと思います。そこへまた吸い込まれちゃうんじゃもちろんいけないのですが、スクリーンがかかった外部というのを見るというのも大事であろうと思います。さっきのみんなで見るというのも、そういうのもあるかなと思うんですけれども、スクリーンに映っているものはどこから来たのかということとも関係するわけです。
それともうひとつ、O先生にちょっとお聞きしたいことがあります。どうして精神分析の人たちは、他人格に会わないのでしょうか? なぜ、ヒステリーという言葉をずっと使って、解離っていうのをいやがるのか。不思議ですね。なぜ会おうとしないのか。そこのところをちょっとお聞きしたいと思います。
O先生:全くその通りです。困ったものです。精神分析の場合には、たとえば、子どもの人格が出てきたら、「それは、あなたが抑圧していたものを今、表しているんでしょ、あなたが」というふうになってしまいます。分析家たちは「あなたはひとり、唯一の存在です」という前提に立っています。ブロイアーとフロイトが「ヒステリー研究」を書いたときに、ブロイアーは、いや、ふたつの心があってもいいじゃないかというふうに考えたときに、フロイトは絶対それはだめだと考えて、そのことは考えないようにして理論を作り上げて、今の精神分析があります。フロイトはリビドー論だったから、心の中で見たくないものはぎゅっと力をこめて無意識に押しやる、そこでもってもう一つの意識が生まれる。でもそれは、ひとつの心の中の下の部分、無意識だという図式をずっと変えなかったので、今まで来ています。
S先生:解離の人たちの人格に対して会わないと言ってしまうと、本当に解離の人たちは、人格はどこへ、どうやって表現していけばいいのかわからなくなります。必ず主人格を通してください、では苦しいじゃないですか。
O先生:そうなんです。だから治療者にあった人格、治療者用人格でずっと来続ける。(フロア笑い)いや、私は分析の人間なので、分析を否定してはいないです。でも、そういうことみたいですね。
S先生: そうだと思います。そういう人格しか来ない。
O先生:はい。
SM先生:先程養育の話をしましたけど、まなざされることによって存在する私、というのがいると思うのです。そのときに、相手との近さだとかと遠さというのがあるんだと思うです。すなわち、たとえば、ある治療者はものすごく再養育的なっていうか、お姉さんのような働きかけの中で、人格同士がすごくエンパワーメントされて協力し始める、というふうなものがあるのだと思います。そして、先ほどSM先生の治療の話を初めて肉声で聞いたのですが、わあ、この先生、私よりもヒーラーみたいだと思ったんです(笑い)。なんというか、そこに何かがあって、立ち上ってくるもの、入ってくるもの、それこそ場があり、というふうなその中で先生がどーんと構えておられて、何かその人の中で動いていくものがあるような、エネルギーの流れがある、という印象を受けました。まなざされることによって存在する私はいろいろなポジションを取るんです。すごく近くになり、ダイレクティブになるときもあるんですが、そういう時に心がけるのは、患者さんが自分で自分をまなざせるようになるのを助けるということです。それが愛だと思うんです。愛、愛情というのは、誰かのことを好きになるという愛ではなくて、私たちが生かされていること自体、生まれて、ここにこうやって生まれていること自体が愛であり、いろいろな体験することも含めて、この世界で生きているということだけでなんだという目で見ることができるようになったときに、自分を愛おしい目で見ることが出来るようになり、そうすることで結局、発達を促しているのだと思います。これは私にとってはすべて生物学的なプロセスだと思います。トラウマ記憶は精神生理学的な爆弾みたいなものだし、それをいかに、外すかということばっかりやってきたわけで、それもトラウマとか愛着とかの、問題についても同じような原理を用いてずっとやってきた立場からすると、生物学的なメタ認知的な回路を作るということを私は心がけているのだと思います。その場における近さ、遠さ、その中で見るということ、それが治療者の個性によってさまざまな形でありうるという風に感じました。