2014年5月14日水曜日

解離の治療論 (34) 欧米における解離の治療論(8)

<治療の目標>
DIDおよび解離性障害の治療目標について改めて述べるならば、それは患者さんが「統合された機能を獲得する」(ガイドライン)ということである。なぜなら「DIDの患者は日常生活に責任を分担しているアイデンティティ達からなる、一人の全体とみなされなくてはならない。」(ガイドライン) からである。ここで『機能」というとき、その範囲はかなり広い。それは他者との関係性を保ち、創造的、生産的な活動をすることを含む。そしてその機能を担う身体が単一のものでしかない場合、それに適応するのはいくつかに分かれた心のほうでしかあり得ない。これは身体運動の担い手としてそうであるばかりでなく、社会的な存在としてもそうである。そしてそのためには「患者は[自らが]別れているという感覚を持つにもかかわらず、自分は単一の人間であること、そして一般的には患者を構成するアイデンティティの一人あるいは全員によるいかなる行動についても、その人全体a whole personに責任を持つべきであることを念頭に置かなくてはならない。たとえ患者がその行動について記憶喪失があったとしても、あるいは自分がそれをコントロールしていたという実感がなくても、である。」
 「治療者は、別のアイデンティティたちはそれぞれが過去に直面した問題に対して、それに対処したりそれを克服するうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。」(ガイドライン)「だから治療者は患者に特定のアイデンティティを無視したり『処分』するように促したり、特定のアイデンティティを別のそれに比べてより現実real のものとして扱うのは、治療的とは言えない。」そして「治療者は特定のアイデンティティをえり好みしたり、好ましくないアイデンティティを排除したりするべきではない。」すなわちこれはアイデンティティたちを平等に扱う、という治療原則をさす。
(ちなみに本稿ではアイデンティティという呼び方を繰り返しているが、私としては感覚的に「別人格」のほうが親しみやすい。ここは後で置き換えるかもしれない。)

ここで一つの用語を導入するならば、それは「解離のセントラルパラドックス」ともいうべき問題である。それは解離されていた心的内容、あるいは解離された心の産物product としての心的内容は、自分の一部であって、しかも他者性を有する」という事実を表す。(思い切って新しいタームを導入したが、これがどの程度有効なものかは今後使用しつつ試してみたい。)