2014年5月19日月曜日

臨床における現実とは何か?(5)


3日間頭を絞って書いたのが以下の文章。なんだ、引用がないじゃないか。

この臨床例の治療初期の段階では、Aと私は多くの点で価値観を共有し、彼の語る体験は多くの意味で私にとってはわかりやすいものであった。すなわちAの「現実」と私のそれは多くの点で「共同の現実」を形成していると感じられた。その中で互いの「現実」の差異を確認することは治療の重要なプロセスといえた。私の「顔色」についての照合はおそらく二人の間の共同の現実を作る働きをしてくれたのであろう。しかし治療プロセスの進行に従い、Aと私はそれぞれの感受性の違いや立場の違いを明確な形で持っていて、当然のことながら異なる「現実」を現実から切り取っていることに気づいていった。5年間の分析治療を通じてAは、私が彼の中にいて、彼が考えている、という感覚を持つに至ったというプロセスは、Aがやがて私という他者の「現実」との参照をあまり必要としていなくなったことを表すのであろう。それが私が具体的な終結の話を持ち出したという彼の認識につながったと思う。それについて指摘したものの、彼がそれに気が付いていない様子に、彼が遠くに行っている気がし、それ以上は侵入しないことにするとともに、Aを終結させることの必要を感じた。それに考えてみれば、私が持ち出さなかったというのも私の「現実」でしかない。究極の現実とはこのように、Aと私は他人同士であり、やがて終結して別れていくという過酷なものであったことをお互いに認識していた。

それでは臨床における真実とは何か。それは患者が治療者に対して、その技法的な熟達を期待する一方で求める「本物らしさgenuineness」に関わる。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、真摯に患者と関わる態度が含まれるであろう。また治療者の人間らしさや自発性も関係している。そしてそれは治療関係において両者が互いの「現実」に向き合い、「共同現実」の儚さや現実の悲劇性を共有する素地を提供する。その意味では真実とは現実の過酷さを代償するものとして両者が追及するものであるかもしれない。