2014年5月18日日曜日

臨床における「現実」とは何か? (4)

ということで症例だが、これは私の著書「中立性と現実」の採録となる。かなり細部を修正したし、海外の例なので、個人情報の問題はクリアーされているはずだ。

<臨床例>

症例は、医療関係に従事する40代半ばの白人男性Aである。Aはかつて私と5年以上に及ぶ精神分析療法を行なった。最初に簡単にAのプロフィールを紹介しよう。Aは数年前に妻に去られ、仕事の同僚にも裏切られたことをきっかけにして深刻な鬱状態に陥り、精神病院に入院するまでになった。彼は信頼していた人からごみのように扱われたと感じ、彼らに対する激しい怒りとともに、体を壁に打ち付けるなどして「自分をこなごなにしたい」という願望を持ったのだ。しかしその後分析療法と薬物治療により順調な回復を見せ、パートタイムながら職場に復帰するまでに至った。Aは学究肌で情緒的に疎遠な父親を持ち、幼少時にはその父親を理想化と同一化の対象として育った。しかしその父親から暖かい言葉をかけてもらったことがなく、また父親がその後Aが思春期の頃に家庭を捨て、若い女性と結婚してしまったことで父親への理想化は激しい憎しみへと変わり、今でもほぼ絶交状態にある。Aは他人から無視されたりぞんざいに扱われたと感じた際には、同様の激しい怒りを他人に向けることが多かったそうだ。
Aとの治療においては私への理想化と治療に対する強い意欲が顕著であった。主として私の仕事上の都合で、セッションは早朝に行なわれたが、Aはめったに遅刻することなく毎日現れ、私に対して非常に丁寧で礼儀正しい態度を示した。しかしこれはAがしばしば他人に向ける激しい怒りや見下しとは対照的でした。Aが私との治療に満足し、多くのものを得ているとしたら望ましいことではありますが、他方でAが私に対して陰性転移を十分に表現できていないのではないかという可能性も考えられ、それはこの治療に対するスーパービジョンでもしばしば取り上げられた。そしてその問題を生んでいる可能性のある二つの要素が考えられた。ひとつには私自身がAとの治療が始まって以来一度もセッションに遅刻したり、直前にキャンセルをしたことがなく、休暇によるキャンセルも比較的少なかったことであり、いわば私の中の完璧主義がAの強迫的な治療への執着を生んでいる可能性である。そうしてもう一つはAが無職のころ設定された低い治療費をそのまま継続していることで、Aが何らかの負い目を私に感じている可能性である。
その後のあるセッションで、Aがいかに精神分析が役に立っているかについて語った際に、私はこれらの二つの可能性を問うてみた。私は次のように言った。「そういえば私の方も一度も休んだり遅刻したりしていませんね。そのことがあなたに、『自分もそうしなくては先生に悪いのでは』という気持ちを生んでいるということはあるでしょうか? 」「いまだに一セッションがXドルのままですね。そのことで私に一種の負い目を感じていませんか? 」これに対してAは、「先生の言うことはそうかもしれませんが、今一つ実感が持てません。」と言い、治療費の変更に関しては少し検討してみたいと伝えてきた。
それからさらにしばらくして、私は家族の事情で比較的長期の休暇を取る必要が生じ、Aとの治療が二週間以上中断されることになった。それまでは私の休暇は一週間が限度であり、この二週間以上の中断はAとの治療が始まって以来はじめてのものとなった。私がその休暇から戻った時はAはさして変わった様子を示さなかった。しかしそれから一週間ほどしたセッションで、Aは自分から積極的に治療費を上げて欲しいと言い出しました。それについてもう少し詳しく話を聞いていくと、Aは言いました。「先生が出かけていた間、実は私は見捨てられて一人ぼっちにされた気がしたんです。休みの二週間が終わるころには、またあの深い鬱の渦の中に再び巻き込まれていってしまう感じがしました。こんなことがおきるとは私は予想してはいませんでした。そして私ははじめて、この分析が自分にとって何を意味しているかを知った気がしたのです。この時間が、自分があの鬱状態から抜け出して毎日仕事をすることを可能にしてくれていると思ったら、それは到底Xドルでは足りないと思うようになったのです。」

私はAが私の休み中に持った様々な感情についてさらに話すことを促した。またAが治療費の値上げを要求した背景にある複雑な感情についてさらに理解を深めることが出来、治療が一歩前進したという実感を持つことが出来た。