2014年5月22日木曜日

解離の治療論 (35)欧米における解離の治療論(9)

ということでいくつもの事情に迷わされながら、再び戻ってきた解離の治療論のテーマ。これも別のオトナの事情がらみだ。確か数日前に「解離のセントラルパラドックス」という大げさな概念を述べた後のままになっていた。あまりに勝手すぎやしないか?そうかもしれないが、ブログは私の思考プロセスの、いわば雑記帳でもあるので、お許しいただきたい。

「解離のセントラルパラドックス」は、これがどのように体験され、理解され、解決されるかにより、治療者の立場も患者の立場も大きく分かれることになる。その意味で重要なタームと言えるのだ。この語は514日のブログでは、次のように定義した。「解離されていた心的内容、あるいは解離された心の産物 product としての心的内容は、自分の一部であって、しかも他者性を有するという事実」である。
 実はこのパラドックス、「非意識の産物」についてもいえることだ。と言ってもいきなり急か?でも少し説明しよう。夢についての考察の中で感じたのは、夢の内容とは non-consciousness での出来事ということだ。Non-consciousness とは「非意識」であり、意識されていない部分(すべて)ということである。たとえば私が今朝見た華々しい夢(といっても内容は全く覚えていない)。でもそれをもし今朝書き留めてあって、「なるほど、こんな夢だったな」と思った場合、もうその時は一種のownership 所有感が生じている。自分が書いたものならしょうがないな、みたいな感覚。似たような例で考えれば、昨日酒に酔った後のことは全く覚えていないが、連れの友人を殴ったという話を聞かされる。すると一応その友人に謝るだろう。全く記憶になくても「私は時々そんなことがあるんです。申し訳ありませんね。となるだろう。このように自分の脳の「非意識」から生まれたものは、自分に対する所属感や責任感が生まれるのが普通なのである。ただし主体としては、そこで一種の理不尽さを感じる。「本当は自分じゃないのに…」「無理やりお酒を飲まされたせいでこうなったんだし、本当は自分が悪いのではなく、アルコールのせいなのだ・・」この責任回避の念は人によってその強さは異なるし、世間が見る目にも人によって大きな差がある。だから精神病により他人を害するという事件が起きた場合、「病気のせいだからその人を罰するわけにはいかない」という立場といや、たとえ病気でも責任は取るべきだ」とに分かれたりする。米国などで、insanity defense を認めるかどうかが州により異なる、といった現象も起きる。

さて解離の別人格も、結局は似たような現象が起きるということを私は言いたいのだ。自分の中の別人格の言動についての主人格の体験は様々に異なるし、周囲がそれをどう見るかもまた異なる。もちろんどこにも正解などなく、異なる「解釈」が存在するだけなのだ。