2014年5月16日金曜日

臨床における「現実」とは何か?(2)

私は、「我謀らず」(広田弘毅)の精神で行っているが、右の欄は一体どうなんだろう?明らかに「宣伝」ではないか。典型的な作為ではないか。でも人に知られること be recognized は重要なことだし。それに出版社の方にはせっかくオンラインで注文できるようにしていただいたのだ。というわけで。

 さてこの「現実」の話がどうして面白いかというと・・・・。何しろ哲学的な議論から入っているから、敬遠されていないとも限らない。その面白さは、やはり治療場面で現れる。患者さんがある内容について語る。それは二人の間で起きたことでもいいし、ニュースで聞いたことでもいいだろう。自由連想であるから何でもありだ。そしてそれについて、治療者の体験と患者さんの体験がおおむね一致することが多いであろう。そのとき患者さんは治療者と話が合うし、理解されているという感じを持つはずである。ところがそれが食い違うことがある。治療者の「現実」と患者の「現実」の齟齬である。するとその「現実」の食い違いが梃子(てこ)のように働いて治療が進展していく。「私はこう思ったのですが、先生はこう思ったのですね。(二人の考え方はこのように違うのですね。面白いですね)」という理解が生まれるだろう。それはおそらく「共同の現実」に繰り込まれていくことになる。

ただそれがある程度以上埋まらないとしたら、つまりこのような「現実」の齟齬が次々と生じた場合には、「話にならない」ことになり、患者としては面白いどころか、それ以上話を続ける意味をなくす可能性すらあるだろう。このような「話にならない」状況は二つの場合により顕著になると考えられる。ひとつは治療関係に入り始めたところでの躓きとして体験される。私は英語で患者とコミュニケーションを行った時に、相手の単語一つの意味を理解しなかったことで患者が立ち去ったことがある。あまりに違う世界の人との間では「共同の現実」の断片すら作れないことがあるのだろう。もう一つは治療の終結の際に生じる可能性がある。それまで共同の現実をじわじわと押し広めていた両者が、それ以上にはいかない部分まで至り、それを機会に「あれ、話が通じていたこの人とは、結局赤の他人ではないか?」という一種の興ざめが生じるのである。これもこれで悪くないかもしれない。