治療初期の段階では、Aと私は多くの点で価値観を共有し、彼の語る体験にも容易に共感することが出来た。すなわちAと私の「現実」は多くの点で「共同の現実」を形成出来ていたといえる。私の「顔色」についての体験の相違は、両者の「現実」として語られ、その差異が理解されたのちに「共同の現実」に繰り込まれていった。しかし治療の進行に従い、Aと私はそれぞれの感受性の違いや立場の違いをより明確な形で感じるようになっていった。Aの語った体験である「自分の中にあなたがいるので、もう私自身が考えられる」は、Aがやがて自らの「現実」と、私という他者の「現実」との参照をあまり必要としていなくなったことを表すのであろう。そしてそれが、私が具体的な終結の話を持ち出したという彼の「現実」につながったと考えられる。私はそれと私自身の「現実」との差異について指摘したものの、Aがそれに気が付いていない様子に、彼との埋められない距離を感じ、Aが終結に向かっていることを感じた。
無論Aが終結を持ち出したというのは私の「現実」であり、真相は確かめようのない現実に属する。そして究極の現実とはこのように、Aと私は他人同士であり、やがて終結して別れていくという過酷なものであることが、Aと私が暗黙のうちに至った最後の「共同の現実」であったかもしれない。
それでは臨床における真実とは何か。 それは不可知的で予測不可能な現実に抗する形で、 自らにとって永久不変なものとして私達が求め続けるもので あろう。それは治療関係において両者が互いの「現実」 に向き合い、「共同現実」 の儚さや現実の悲劇性を共有する勇気を与える。その際に治療者に求められる態度として重要なのは、 技法的な熟達にはとどまらない「本物らしさ genuineness」 である。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、 真摯に患者と関わる態度が含まれるのである。