2018年6月18日月曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 27


21章 精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?
            
本書の最後の章は、精神分析を学ぶ側の姿勢についての議論である。この章は2017年に精神分析学会で発表したのもの原稿をもとにしており、「です、ます」調で書かれたものなので、その形を保ったままでここに再録したい。
本日は、私自身が精神分析をどのように学んだか、というテーマでお話をしますが、このテーマを与えられた時にまず心に浮かんだのが、「学びほぐし」という言葉です。これは英語の unlearn の日本語訳ということになっていますが、「脱学習」、というよく使われる訳語とは別に、評論家の鶴見俊輔先生(2015年、93歳で没)がこれを「学びほぐし」という絶妙な日本語にしたという経緯があります。そしてこれが本日のテーマにぴったりという気がします。そこで「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマでお話ししたいと思います。

学びの最終段階は、必ず一人である
先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは三人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、先に講義した先生はすでに帰られていて、三人の講師が最後にそろって一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからのメールにどのように対処するかについて、講師Aの言うことと、講師Bの言うことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Bとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。私は私の講義で、「患者さんとの連絡用にメールを用いることがあるが、患者さんからのメールに返信するかどうかは、その緊急性に応じて決める」というような言い方をしたと思います(ちなみにここでは実際の例に多少変更を加えています)。そしてそれに対してA先生はかなり違った方針をお話したのでしょう。ただし私はA先生のお話を聞いていないので、私の想像の範囲を超えません。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、私にさほど後ろめたさはありませんでした。それよりもむしろ、Cさんの不満は、精神療法を学ぶ上で、非常に重要な点を私たちに考えさせてくれたと思います。それがこの unlearning というテーマです。CさんはたとえA先生の方針を最初に聞いて学習したとしても、あるいは私の話を聞いて学習したとしても、結局はどちらの内容に頼ることなく、自分ひとりでこの問題について判断しなくてはならないということです。Cさんは私からメールについて学んだとしても、あるいはA先生から学んだとしても、それを学びほぐさなくてはなりません。つまり自分一人で問い直し、自分一人で答えを出すという作業をしなくてはならないわけです。そしておそらくCさんはまだそのことを知らなかったのであろうということです。
もちろんCさんは他のことについてはたくさん学習をなさっていることと思いますし、その一部は学びほぐしていらっしゃるのでしょう。でもこの患者さんとのメールのやり取り、あるいは電話のやり取り、さらにはセッション外での患者さんとのコミュニケーションのあり方については、彼が一度学んだ後、学びほぐす類の問題であることをまだ自覚していないのだと思いました。

     (以下、とっても長くなるので省略)