「心の動かし方」の3つの留意点
さてミット打ちの比喩、症例A,Bと紹介してきました。そして私のいう「心の動かし方」は構造を内包している、という話をした。その心の動かし方について、いくつかの特徴を最後にまとめておこう。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚
一つは私はその内的構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということだ。バウンダリーという見方をすれば、私はその上をいつもさまよっているのである。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいだろう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのだ。これは先ほどのミット打ちにもいえることだ。コーチがいつもそこにあるべきミットをヒュッとはずしてくる。あるいは攻撃してこないはずのミットが選手にアッパーカットを打つような素振りを見せる。すると選手は怒ったり不安になったり、「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。もちろんやりすぎは禁物ですが、おそらく適度なそれはミット打ちにある種の生きた感覚を与えるであろう。
あるいは実際のセッションで言えば、私はGさんに「まあ、どうぞどうぞ、お茶でも」と言って、ペットボトルのお茶を紙コップに入れて振舞う。こんなことは普通は精神科の外来では起きないので、Gさんは私が冗談でやっているのか本気なのかわからない。私が時々言うジョークにもその種の得体の知れなさがある。Bさんはそれに笑うことが出来て、「これは掛け合い漫才ですか?」といったりする。私とBさんはそんな関係を続けているわけですが、この種のバウンダリーのゆるさは、仕方なく起きてくると言うよりも、実は常に起きてしかるべきものであり、治療が死んでいないことの証だというのが私の考えである。
通常私たちは、この種のバウンダリーには極めて敏感である。欧米人なら、通常交し合うハグの中に、通常より強い力、長い時間、不自然な身体接触の生じている場所にはすぐに気がつくだろう。あるいはほんの僅かな身体接触はとてつもない意味を持ち、性的な意味を持つものは即座に感じ取られる。そしてそれはまたそれが生じる文脈に大きくかかわってくる。あるセッションの終わりに、治療者が始めて握手を求めてきたら、特別な意味が与えられるだろうが、終結の日なら、極めて自然にそれが交わされるという風に。言葉を交わしながら、私は同じようなバウンダリーをさまよっている。実はそのことが重要なのであり、そこに驚きと安心がない混ぜになるからなのだ。そう、バウンダリーは、それがどのようなものであっても常にその上をさまようものなのである。週一回、50分、と言うのはそのほんの一例に過ぎないのだ。
2「決めつけない態度」もやはり治療構造の一部である
もう一つは決め付けない態度 non-judgemental attituede ということである。Fさんの場合も、Gさんの場合も、かなり世間から虐げられ、誤解を受け、辛い思いをしてきたということが伺える。人からこんなことを指摘されるのではないか、こういうところを疎ましがられているのではないか、ということが感じられるのだ。たとえばFさんの場合は、曲がりなりにも国家の資格は持っているにもかかわらず、職を得ていない。Gさんの場合も、自称元治療者という経歴を持っていますが、今はフラフラしている毎日である。彼らは少なくとも私が厳しいことや、彼らが曲がりなりにも持っているプライドを傷つけるようなことは言わないことを知っている。働いたらどうかとは決して言わないし、お説教じみたことは私の発想にはない。私は彼らを「直そう」とは特に思わないし、彼らが生活保護をこれから続けなくてはいけない事情をよくわかっている。彼らの中に深刻な孤独感と対象希求があるのをわかっているつもりだ。彼にとっての私は、おそらく変わった精神科医で、必要に応じて投薬をし、診断書を書くという以外は、白衣を着たただの友達という感じだろう。もちろん私は白衣は着たことはないし、持ってもいないが、私が医師であるということは彼にとっては意味があることは確かで、そのことを私も知っているつもりである。
私にとって決めつけないというのは構造の一つである。それはスパーリングで言えば、そこに遊びはあっても、基本的にはミットが選手の痛めている右わき腹や狙われやすいアッパーカットを打ち込むということはない。その安心感があるからこそ、そのそぶりはスリルにつながるのだろう。
3.やはり自尊感情セルフエスティームか?
私は心の動かし方のルールとして、やはり患者のプライドとかセルフエスティーム、自尊心を守るということを考えてしまう。Henry Pinskerという人の支持療法のテキストに書いてあったが、支持療法の第一の目的は患者の自尊心の維持だということである。私もその通りだと思うのは、彼らの自尊心を守ってあげることなしには、彼らは自分を見つけるということに心が向かわないからである。だから私がFさんやGさんとやっていることが、ただ彼らに支持的にふるまっているわけではないということをわかっていただきたいと思う。彼らはある意味ではだれから見ても目につく特徴を持っている人たちである。私はついいたずら心から彼らの特徴を指摘したくなることもある。ところがある意味では私との面接外では、彼らはそれらについて過剰に指摘され、傷ついている可能性がある。それに触れないことは、私の発揮できるニュートラリティ、中立性とも考える。
以上本章では、精神療法の強度のスペクトラム、内在化された構造としての「心の動かし方」というテーマで論じた。